血洗島
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血洗島
大字
旧渋沢邸「中の家」
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度14分7.27秒 東経139度15分26.55秒 / 北緯36.2353528度 東経139.2573750度 / 36.2353528; 139.2573750
日本
都道府県 埼玉県
市町村 深谷市
面積
 ? 合計0.62 km2
人口(2021年(令和3年)1月現在)[1]
 ? 合計437人
 ? 密度700人/km2
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号366-0006[2]
市外局番048(熊谷MA[3]
ナンバープレート熊谷
血洗島近傍図

血洗島(ちあらいじま)は、埼玉県深谷市にある大字および地区の名称である。市では八基地区で分類されている。郵便番号は366-0006[4]。面積は615180.118平方メートル[5]。2015年時点の国勢調査で人口は448人、世帯数は145世帯である[5]。旧榛沢郡血洗島村。「近代日本資本主義の父」と称される実業家・渋沢栄一が生誕した場所として知られている[6]
地理

埼玉県の北部地域で[7]、深谷市の北西部に位置する[6]南北に長い地域。区域の東側を下手計や上手計、南側を町田、西側を南阿賀野や北阿賀、北側を横瀬と隣接する。また北部は横瀬を挟み河川飛び地である群馬県伊勢崎市境島村が近傍に位置する。地区中央部を清水川が東西に流れる。全域が利根川小山川に挟まれた後背地沿いの沖積平野部に属していて起伏は一切無い。地内は畑などの農地が広がり蔬菜栽培が盛んであるなど、農業的土地利用の比重が高い地域である。なお、地名に「島」という字があるがではない。
歴史

もとは江戸期より存在した武蔵国榛沢郡岡部領に属する血洗島村で、さらに古くは大寄郷藤田荘に属したと云う[8]。また、慶安2年から3年(1649年から50年)に成立したとされる「武蔵田園簿」に血洗島村の記載がある[9][10]。戦国期の天文年間では芦田氏領で[11]1537年(天文6年)に当地に移住した下総国の吉岡和泉重行が開墾を始め、その頃の戸数は5軒だったと云う[12]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』によると210余(全て畑)、『元禄郷帳』によると210石余、1834年(天保5年)の『岡部藩領取調帳』[12]や『天保郷帳』によると346石余であった[8]。化政期の戸数は50軒で、村の規模は東西4余、南北19町であった[8]。村内には上ノ淵および下ノ淵と呼ばれる2つの沼地がかつてあった[8]。村の北部には東西方向に延びる水除堤が築造されていた[12]。村の物産は蚕卵紙生糸などの養蚕関連業であった[8]。後述の藍の生産も養蚕並みに盛んであった[13]

1889年の町村制施行までは、血洗島村という名称であった[14]

知行は徳川氏の関東入国後は旗本安部信勝[12]、慶安2年[15]より岡部藩を立藩してその後半原藩領となる。なお検地1590年天正18年)に実施[8]

1871年明治4年)

7月14日 - 廃藩置県により半原県の管轄となる。

11月14日 - 第1次府県統合により、入間県の管轄となる。


1873年明治6年)6月15日 - 入間県が群馬県(第1次)と合併して熊谷県の管轄となる。

1876年(明治9年)8月21日 - 第2次府県統合により、埼玉県の管轄となる。

1879年(明治12年)3月17日 - 郡区町村編制法により成立した榛沢郡に属す[8]。郡役所は熊谷宿に設置。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、大塚村、血洗島村、上手計村、下手計村、横瀬村、町田村、南阿賀野村、北阿賀野村が合併し、新たに榛沢郡手計村が発足[14]。血洗島村は手計村の大字血洗島となる。地内に手計村役場を設置[16]

1896年(明治29年)3月29日 - 郡制施行により、榛沢郡が大里郡、幡羅郡男衾郡と合併し大里郡となる[17]

1890年(明治23年)2月28日 - 大里郡八基村に名称を変更[14]。役場は地内の旧手計村役場の庁舎を使用[18]

1954年昭和29年)11月3日 - 新會村と合併し、新たに豊里村が発足[14]。豊里村の大字となる。

1955年(昭和30年)1月1日 - 中瀬村が編入合併する[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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