血の中傷
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血の中傷(ちのちゅうしょう、英語: Blood libel, Blood accusation、ヘブライ語:????? ??)とは、ユダヤ教徒キリスト教徒の子どもを拉致誘拐し、その生き血祝祭儀式のために用いているとする告発、非難であり、儀式殺人ともいう[1][2][3][4][5][6]

井戸を流すこと(Well poisoning)や聖体冒涜(host desecration)などと並んで反ユダヤ主義の歴史において主要な題目となり、ユダヤ人に対する迫害、追放、虐殺の口実となった[4]。典型的な血の中傷においては、キリスト教徒の血は、過越祭で食べられる酵母の入っていないパン「マッツァー」に使われるとされる。中世ヨーロッパにおいては何千の噂を除く150例の儀式殺人事件でユダヤ人が逮捕され処刑された[7]

なお、「血の中傷」が有害で誤った告発を意味することもあるが、この使用法についてユダヤ人グループから抗議がなされている[8][9][10]
名称の由来

過越しのパン(マッツァー)の中にキリスト教徒の子供の血を混ぜるという噂が、「血の中傷」という言葉のそもそもの由来である。だが、この噂が広範囲に流布されるに及んでユダヤ人に対する中傷一般を指す概念として用いられるようになった。血の中傷はユダヤ人差別の象徴として、彼らに対する憎悪を一層掻き立てる機能を果たした。特に過越祭の期間にその機運が高まったが、それは過越祭そのものが他の祭に比べて民族主義色が濃く、ユダヤ教の起源、習慣、信仰といったアイデンティティをより具体的に表現していたことも関係している。

ユダヤ教には殺人についての厳格な禁止事項があった。また古来より、肉食には細心の注意を払っており、タルムードでは人肉食についての警告を発してもいる。にもかかわらず、ユダヤ教徒は特別な儀式において祭具に滴らせるキリスト教徒の血を必要とし、そのために密かにキリスト教徒の子供たちを殺害し、その遺体から血を絞り出しているといった噂が公然と囁かれていた。

ユダヤ人によるキリスト教徒殺害という観念はイエス受難を連想させ、その再現とさえ見なされていた。その種の噂は以前からあり、単純にキリスト教徒に対するユダヤ教徒の復讐であると説明されていたが、その後、反ユダヤ主義者にとって都合の良い別の説が定着するようになる。それが上述の、過越のパンにキリスト教徒の子供の血を混ぜるというものであった。さらには、過越の晩餐に供されるワインにも血が注がれているといったと尾ひれが付くようになり、年を追う毎に、過越し祭が繰り返される度に話が膨らんでいった。

血の中傷にまつわる流言は、中世以降の800年間におよそ200のバリエーションが数えられているが、そのいずれもが核心部分にはほとんど手が付けられていなかった。よって、世代を通じて固定観念が形成されるようになり、血の中傷についてのおおよそのストーリーが完成するに至った。それによると、

過越祭の数日前になると突然、キリスト教徒の子供が行方不明になる。

祭が終わった頃になると子供の遺体がユダヤ人の家の近辺で発見される。

その遺体には血を抜き取られた形跡がある。

つまり亡くなった子供はユダヤ人の過越しの生贄として犠牲になったという話の流れである。

当時のキリスト教徒は、自分たちのことをユダヤ人よりも啓蒙され、より文明的であると考えていた。よって、キリスト教社会では穢れた職業として禁忌されていた金融業にユダヤ人が携わっているのならば、儀式においても人肉を食したり血をすすったりするような野蛮な信仰、習慣を保持しているに違いないと当然視していた。

血の中傷は、当初はイギリスフランス国内でのみ、まことしやかに囁かれていたが、この両国を中心に各国へと伝えられ、やがてはヨーロッパ全土を席巻するに至った。
歴史

血の中傷の起源は古代にまで遡ることができる。それがキリスト教社会固有の潮流としてヨーロッパ地方の各地で爆発的に拡散したのは中世末期のことである。
古代

フラウィウス・ヨセフス(ヨセフ・ベン・マタティアフ)は『アピオーンへの反論』でのユダヤ人を擁護する記述の中で、反ユダヤ主義信奉者がユダヤ人の誹謗中傷をヘレニズム世界の各地に蔓延らせていたと述べている。ヨセフスが紹介した中傷は次のような話であった。アンティオコス4世エピファネスエルサレム第二神殿の中に入った際、収監されていた一人のギリシア人男性の姿を見付け、彼が何者で、そこで何をしているのかを尋ねた。するとその男は、ユダヤ地方を訪問中に捕らえられて囚人として神殿に連行されたのだが、そこで食料をたらふく食べさせられていると答える。アンティオコスはさらに質問し、その言葉の意味を質したところ、彼は答えた。「ユダヤ人の律法では、国外から訪れるギリシア人を捕らえて丸1年かけて十分に太らせた後、生贄として神に捧げ、その肉を食べながら全ギリシア人を呪い殺すべく誓いを立てるよう定められている」と。

ヨセフスがユダヤ人に対する中傷への反証のために持ち出したこの屈辱的な逸話は、自らもユダヤ人であったヨセフスがあえて書物に記録したことにより、ヘレニズム期からローマ時代にかけて、この種のデマが流布していたことの信憑性を高めている。
中世

十字軍の時代には、イギリス、ドイツ、フランスなどでユダヤ人による儀式殺人(meurtre rituel)が告発された[11]
イギリス
ノリッチのウィリアム:最初の血の中傷ユダヤ人に儀式殺人で殺害されたといわれたノリッチのウィリアムの磔刑。ノーフォークロッドンホーリー・トリニティ教会

血の中傷が最初に発生したのは、1144年、イギリス東部の町ノリッチにおいてである[12]。ユダヤ人が儀式のために少年ウィリアムを殺したという儀式殺人を告発したケンブリッジの修道僧シーアボルドはキリスト教の洗礼を受けたばかりの改宗ユダヤ人だった[12]

ウィリアムという名の少年の遺体が森の中で発見された。その遺体は腐敗こそしていなかったものの、暴力が加えられた痕跡が残されていた。事件の調査に当たったトマス修道士は、聞き込みによってユダヤ人の関係を仄めかすいくつかの証言を集めた。ユダヤ人富豪の屋敷で働く家政婦によると、彼女は屋敷内でその幼児が縛られているのを目撃したという。また、キリスト教徒のひとりは、遺体を森の中へと運ぶユダヤ人の集団と遭遇したと報告した。さらには、トマスの友人のユダヤ人キリスト教改宗者も、ユダヤ人が毎年フランスのナルボンヌに集まり、その年の過越の生贄をどの町から調達するのかを協議していると告白した。当時の資料に基づいた歴史家の推論によれば、すべての証言はユダヤ人キリスト教改宗者がトマスに吹聴したものと見られている。このユダヤ人に関連して別の歴史家は、彼の偽証は当時一般的に語られていた中傷の一つになったに過ぎず、その背景ではもっと悲惨な事件が多数起きていたと述べている。ユダヤ人名士が一文無しの騎士に殺害される事件も起こった[12]

当地の権力者等はこの事件に一切絡んでいなかったが、彼が確立した血の中傷は作者を離れて独り歩きし、その後に誕生する何百というバリエーションのプロトタイプとして世代を通じて語り継がれた。
リンカン

1255年イングランドリンカンにて、貧困層の子供が森の中で行方不明になった。遺体は井戸の中から発見されたが、容疑者として真っ先に疑われたのはユダヤ人であった。尋問の末、彼らの中の一人が罪を自白したものの、その自白は減刑には結び付かなかった。彼は馬の尾に結び付けられて市内を引き回された挙句、その他17名のユダヤ人と共に処刑された。

それから200年後の時代の詩人ジェフリー・チョーサーは、『カンタベリー物語』の逸話「女子修道院長の話」の中で、リンカンでの血の中傷を取り上げている。
フランス

1171年にはフランス中部の町ブロワでも血の中傷が発生したが、いくつかの点で特殊な事例であった。遺体の発見や幼児の行方不明といった伏線がない状況で発生した。ユダヤ人とキリスト教徒の使用人がすれ違った際、加工された皮の包みをユダヤ人が落としたことが火元になったと見られている。使用人はその皮が子供の遺体から剥ぎ取られたものと疑って、すぐさま主人に報告した。その主人は以前にユダヤ人の富豪ともめた経緯があって、復讐の機会を窺っており、その報告を好機と見たのである。その他の事例とは違って、この件にはブロワの権力者も積極的に絡んでいた。それは当地におけるユダヤ人がらみの裁判を円滑に進めることを目論んでいたからである。この事件では、ユダヤ人38人がキリスト教徒の子供を誘拐して儀式殺人を行ったと告発され、焚刑に処された[12][* 1]。ブロワにおける惨殺によって大変な衝撃を受けた同時代のユダヤ人たちは、その日を心に刻み込むためにシバンの20日を断食日に制定した。その制定は、今日ではラベィヌー・タム(ラビ・ヤアコブ・ベン・メイール)の一連の業績の一つに帰されている。また、当時行われた断食については、ゲダルヤの断食よりも大規模なものであったと伝えられている。


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