蠣崎氏
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蠣崎氏(松前氏)
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}丸に割菱(まるにわりびし)
本姓称・清和源氏河内源氏義光流
家祖武田信広?
種別武家
華族子爵
出身地安芸国
主な根拠地夷島(上ノ国松前
福岡県久留米市[1]
著名な人物蠣崎基広
蠣崎季広
松前慶広
凡例 / Category:日本の氏族

蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:松󠄁前󠄁氏)は、武家華族だった日本氏族。祖とされる武田信広は、若狭国出身で1454年蝦夷地に渡り蠣崎氏の客分となったが、コシャマインの乱アイヌ人制圧を主導して蝦夷地における地位を固め蠣崎氏を継いだという。5代目の慶広の代に豊臣氏徳川氏に臣従し、松前と改姓して松前藩を形成し[2]維新後華族の子爵家に列した[3]
蠣崎氏
系譜

下北半島鎌倉時代以来、津軽安藤氏の支配下にあり、建武元年以後は南部氏の一族が知行していた。その系譜については以下の史料が残っている。
南部史要

北部御陣日記(東北太平記)』に拠れば、蠣崎氏は八戸根城南部師行の家臣 武田修理大夫信義から五郎信長?信吉?治部丞信道?信純(蠣崎蔵人)と続き、建武年間の頃から5代120年間、むつ市川内町蛎崎に所在した蠣崎城を居城とした。

1448年文安5年)5月、順法寺城「北部王家[注釈 1]」新田義純一族が蠣崎蔵人の陰謀により殺害されると、13代八戸南部政経1456年康正2年)から翌年にかけ蠣崎氏追討を始めた。これに対し、蔵人は松前のアイヌや安東氏・葛西氏の応援を得たが抗しきれず松前に逃げた。(康正の乱[4]

ただし『東北太平記』自体は、史実を確認するための史料としては疑わしい面がある。
新羅之記録祖と伝わる武田信広

新羅之記録』に拠れば、若狭武田氏の流れを汲む武田信広を祖とする。若狭武田氏当主信賢の子とされる武田信広が宝徳3年(1451年)に若狭から下北半島の蠣崎(むつ市川内町)に移り、その後に北海道に移住してその地を治める豪族となったという。
その他

和氣俊行は武田信広の出自について検討したが、若狭武田氏の初代となった武田信栄、その後を襲った信賢、国信兄弟は、生没年や活動年代から信広の父である可能性は低く、信広は信栄らの系統ではなく、信栄以前に若狭守護であった一色氏のもとで小守護代をつとめていた別系統の武田氏の出自であった可能性を指摘している。この系統の武田氏は右京亮重信、左近将監長盛の父子2代に渡って若狭小守護代を務めたものの、応永13年(1406年)に若狭守護代の小笠原氏が失脚したことで若狭小守護代の地位を追われたと推測されており、その後は若狭での活動が見られなくなることから、没落後に若狭から蝦夷に渡った可能性もあるとしている[5]
蝦夷における蠣崎氏


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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