尊者
エリザベト・マリア・北原怜子
社会奉仕家
生誕1929年8月22日
日本・東京府豊多摩郡
(現・東京都杉並区)
死没 (1958-01-23) 1958年1月23日(28歳没)
日本・東京都墨田区
蟻の街
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北原怜子
教会カトリック教会
洗礼名エリザベト・マリア
受洗日1949年11月1日
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北原 怜子(きたはら さとこ、1929年8月22日 - 1958年1月23日)は、キリスト教の教義に基づき献身的な活動を展開した社会奉仕家である。「蟻の町のマリア(ありのまちのマリア)」とよばれた。東京都出身。 東京府豊多摩郡(現:東京都杉並区)生まれ。学者で教育者の北原金司の三女。桜蔭高等女学校(現桜蔭中学校・高等学校)、昭和女子薬学専門学校卒業。1949年光塩女子学院内のメルセス会修道院にて受洗。洗礼名はエリザベト、霊名はエリザベト・マリア[1]。現在の隅田公園現在の言問橋 1950年に浅草にある姉の家に転居した際に、“ゼノ神父”ことゼノ・ゼブロフスキー修道士(コンベンツァル聖フランシスコ修道会)と知り合う。ゼノ修道士を介して隅田川の言問橋周辺、現在の隅田公園の界隈(台東区側)にあった通称「蟻の町」のことを知る。「蟻の町」とは小沢求
概要
当初は、通いながら奉仕活動をするものであったが、やがて彼女は貧者を慰問することは偽善者のごとき大きな罪であると悟り、自らが汗を流して貧者と共に労働をし生活し助け合うことが重要であると考えるようになった[3]。彼女の行動によって「蟻の町」、特に子どもたちの教育環境は段々と整えられていく。
彼女の行動は世界に発信され賞賛の声が多く届くが「財宝ばかりでなく、名誉や地位もまた悪魔的な誘惑だ」として、その名声に甘んじることはなかった。
諸々の奉仕活動での体力的無理が祟り著しく健康を害し、療養のため「蟻の町」を離れるが、やがて死期を悟ると「蟻の町」に再び移住。1958年腎臓病で夭折した。28歳没。墓所は多磨霊園にある。
この地区に生まれた「蟻の町教会」は東京都中央区月島8号埋立地の「カトリック枝川教会」を経て、東京都江東区潮見のカトリック潮見教会
となっている(近くにはカトリック中央協議会本部がある)。1985年6月1日に完成した新しい教会堂には「蟻の町のマリア」の名称が冠せられている。その後1960年代以降の高度経済成長により同地域はインフラストラクチャーが整備され、社会福祉政策により貧困地区から脱した。 北原がキリスト教と出会ったきっかけは、年の離れた彼女の妹(肇子)を通じてである。北原は、この妹が通う光塩女子学院まで送るその途中で、その学校の経営母体であるベリス・メルセス宣教修道女会の修道女に出会った。そして彼女はその後にメルセス女子修道院の門を叩き、キリスト教について学んだ。北原は、この時にメルセス会
家族
祖父・北原芳松 - 野付牛村(現・北海道北見市)村会議員[4]
父・北原金司(1899-1981) - 芳松の長男。1924年北海道帝国大学農業科、1928年東北帝国大学法文科、1931年東京帝国大学経済科を卒業、大学院をへて東京農業大学講師となり(のち教授)、1943年農学博士号を取得、1946年日吉学園女子専門学校校長に就任[5]。1961年に高崎経済大学2代学長に就任したほか1937年から1969年まで公益財団法人北海道在京学生後援会・北海寮の監事を務めた[6]。1971年に『マリア怜子を偲びて その愛は永遠に』を上梓している。
母・?(1902-1991) - 父の母方いとこ。札幌市立高等女学校卒。[5]
姉・高木和子 - 花川戸の履物問屋「高木商店」に嫁ぐ[7]。夫婦ともにクリスチャン[6]。
養妹・俵肇子 - 父の養女。社会活動家。[5][6]
キリスト教との出会い
受洗
北原は、父親にカトリックの洗礼を受けたいと申し出て、父親の了解を得た。そして1949年(昭和24年)11月1日に洗礼を受け、その翌々日には堅信を受けた。その後は同修道院でのボランティア会に参加し、施設慰問で孤児たちの面倒を見たり、食べ物を届けるなどの奉仕活動をしていたが、物足りない思いがつのり、メルセス修道院の修道女となって世の中の人に働きたいと希望していた[9]。 北原が修道女となりたい希望を両親に打ち明けた時、両親はさすがに驚き、嘆き悲しんだと言う。しかし彼女の決心が固いことを確かめた父親は、まず、修道女の見習である「修練者」として自分を試してみることを彼女に勧めた。そしてメルセス会の修練院がある萩市に、北原が向かうこととなったその前日に、北原は高熱を発して寝込んでしまった。その病状は肺結核であり、早期発見のため命に別条はなかったものの、修練者として修行の生活にはいることは難しいとされてしまった。 その後、父親も病気に倒れたりしたため、心配した長女(和子)が自分の嫁ぎ先である浅草の履物屋、木商店に一家に移住してくるように勧めた。北原は、この浅草の履物屋で、ゼノ修道士と出会うこととなる[10]。 1950年に北原怜子が21歳の時、姉の嫁ぎ先である浅草の履物屋[11]に、一家で身を寄せていた時、彼女のもとに全身黒ずくめの修道士が現れた。それがゼノ修道士であった[12]。 北原が暮らすその履物屋の店先で、ゼノ修道士は店員たちを前に、雑誌の『聖母の騎士』や『コルベ神父伝』のパンフを並べてユーモアたっぷりに説明していた。北原は「サンタクロースそっくりのおじいさんが来ている」と、店員に店に出てみるようにと誘われて、何となしに降りてみた。北原を見たゼノ修道士は、彼女がロザリオを持ち合わせているのに気付き、キリスト教の洗礼を受けているかと聞いてきた。これが、北原とゼノ修道士との初対面である。北原はメルセス修道院で受洗したことを告げると、ゼノ修道士は、修道女になるつもりなのかとさらに聞いてきた。北原はこの時、修道女になることを考えていたことを自書に書いている[13]。ただし、酒井友身著の伝記によると、この時点で北原はすでに最初の肺結核を発病した後であり、修道女になることについては体力的に無理があったとされる[9]。 店にとびこんできたゼノ修道士を店員たちが相手をしたのは、彼を北原の訪問客と勘違いしたためであり、この時、北原もゼノ修道士を見て、「黒い修道服を着た神父」としか認識せず、何者かを知っていなかった。
修道院への希望と挫折
ゼノ修道士との出会い