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出典検索?: "蝶野正洋"
蝶野 正洋
Masahiro Chono
プロフィール
リングネーム蝶野 正洋
マサ・チョーノ
本名蝶野 正洋
ニックネーム黒のカリスマ
黒の総帥
極悪バタフライ
夏男
ミスターG1
身長186cm
体重108kg(全盛期)
誕生日 (1963-09-17) 1963年9月17日(60歳)
出身地アメリカ合衆国ワシントン州シアトル生まれ
東京都(渋谷区、三鷹市)育ち
所属ARISTRIST
スポーツ歴サッカー
トレーナーアントニオ猪木
ルー・テーズ
山本小鉄
デビュー1984年10月5日
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蝶野 正洋
YouTube
チャンネル
公式【蝶野チャンネル】CHONO Network
活動期間2019年12月30日 -
ジャンルエンターテイメント
登録者数約14.3万人
総再生回数約2196万回
YouTube Creator Awards
チャンネル登録者数・総再生回数は
2023年4月15日時点。
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蝶野 正洋(ちょうの まさひろ、1963年〈昭和38年〉9月17日 - )は、日本の男性プロレスラー、YouTuber。アメリカ合衆国ワシントン州シアトル出身、東京都(渋谷区、三鷹市)育ち。血液型O型。 蝶野の父は愛媛県新居浜市出身で、大手製紙会社の会社員。母は愛媛県大洲市出身、医者の家系でお嬢様育ちの優しい人柄という良家であった。兄と姉がいる。そんな中、英語堪能な父の赴任先となったアメリカ合衆国ワシントン州シアトルで蝶野は3人きょうだいの末っ子として生まれた。2歳半で帰国し、以後は神奈川県川崎市多摩区、東京都渋谷区、三鷹市で少年時代を過ごす。アメリカ国籍と日本国籍の多重国籍であったが、すでに帰化[要出典]している。 目黒区たちばな幼稚園、渋谷区立猿楽小学校、三鷹市立北野小学校、三鷹市立第五中学校、三鷹第六中学校、東京都立永山高等学校卒業。渋谷区で過ごした小学校時代までは周囲をエリート家庭に囲まれた優等生で過ごしていたが、小学6年で三鷹市に転校した初日、隣のクラスの番長が挑んできた腕相撲勝負に勝ったことで蝶野は番長となってしまい、中学に入学後に頭はアイロンパーマに剃り込み、制服ズボンはボンタンと不良街道を突き進んだ[1]。その一方で、新設された中学にサッカー部がなかったため、蝶野が部を立ち上げるなどサッカー部の活動には熱が入っていた。蝶野もサッカー推薦での私立の強豪高校への入学を希望したが、筆記テストで点数不足だったため不合格、挫折を味わう。あげくに警察沙汰の暴行事件を起こし全てが水泡と消えた[2]。蝶野は、二次募集で受かった高校に入学後もサッカーを続けるが、ここでも暴力沙汰で停学を繰り返し、サッカーでは完全に挫折。高校時代まで三鷹の暴走族に所属し、深夜になるとベランダからこっそり家を抜け出して特攻服姿でオートバイに乗り暴走行為を繰り返していた[3]。「三鷹の蝶野」の存在はその方面ではよく知られた存在で[4]、その名前は当時ブラックエンペラーの総長だった宇梶剛士の耳にも届いていたという。高校卒業後、浪人中に「ワールドプロレスリング」で長州力対藤波辰巳の試合を見てプロレスに興味を抱き、トレーニングを開始。新日本プロレスに入門を許可された後、親を説得する材料として神奈川大学に合格するが、大学は入学式にだけ出席し、そのまま新日本プロレスに入門した。蝶野は「荒れていた自分を更生できるチャンス」と捉えていたが[5]、両親ともプロレス入りには反対だったため蝶野は、「厳しい世界で自分を試したい、半年だけでいいからチャンスをください。レスラーとして芽が出ないなら大学へ行くから」と両親に頭を下げて説得[6]。母親は「プロレスを辞めたときのために退学になっていてはいけないから」と蝶野には黙って毎年4月に大学の教務課を訪れて学費を払い続け、学籍を8年間残していた[7]。 1984年4月、蝶野は武藤敬司と同日に新日本プロレスへ入門し、同年10月に埼玉県で行われた興行でプロデビューした(初戦の相手は、同じくこの試合でデビュー戦を迎えた武藤。)[8]。1987年の第3回ヤングライオン杯で橋本真也を破り優勝。優勝条件の海外武者修行に、同年春に出発。オーストリアのグラーツトーナメントを初参戦に、ウィーントーナメント、ドイツ転戦ではハノーバートーナメント、西ベルリントーナメント、ブレーメントーナメントに参戦。グラーツ、ブレーメンは、オットー・ワンツがプロモートする大会。キャッチ・レスリング・アソシエーション(CWA)に参戦した。ドイツ(当時西ドイツ)ブレーメンで、現在の夫人であるマルティナ・カールスと出会った。 1987年12月、ヨーロッパ武者修行を終え、北米に転戦。アメリカ合衆国カンザスシティに転戦、1988年春にカナダのニューブランズウィック州モンクトンに転戦、1988年秋アメリカ合衆国アラバマのNWAテリトリーと北米を転戦[8]。
来歴
新日本プロレス入門前
若手時代(1984年 - 1989年)