蝦夷征討
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日本の古代東北経営(にほんのこだいとうほくけいえい)、古代東北政策(こだいとうほくせいさく)、古代東北史(こだいとうほくし)または東北古代史(とうほくこだいし)は、日本古代東北の経営に進出したヤマト王権や後身となる古代日本の律令国家朝廷)が、蝦夷社会に対して律令を基本法とする古代日本の中央集権政治制度およびそれに基づく政治体制の中に編成していく対蝦夷政策である。

中央史観の強かった時代には日本の古代東北経営全般を指して蝦夷征討(蝦夷征伐)と呼ばれたが、必ずしも征討を繰り返していたわけではなく、時代によって懐柔政策、移民政策、征夷政策、民夷融和政策などの変遷がみられる。
神話において
神武天皇即位前紀

奈良時代に成立した日本歴史書日本書紀』に以下の歌が載せられている[原 1][1]。愛瀰詩烏 ??利毛々那比苫 比苫破易陪廼毛 多牟伽?毛勢儒 ? 『日本書紀』神武天皇即位前紀戌午年十月条

この歌は神武天皇の即位前に、道臣命大来目部の軍勢を率いて八十梟帥の残党を破った時の戦勝歌とされている[1]。愛瀰詩とあることからこの歌は蝦夷(えみし)についての最も古い言及とされるが、一方では伝説の域を出ないとする考えもある[2][要ページ番号]。

国文学の研究によれば、本来は神武天皇との関わりがなく、ヤマト王権の外征軍である大来目部が大王の命を受けて未服属の地域に軍事的遠征をおこなっていた4世紀頃に凱歌として歌われていたものと推察されている[1]
古墳時代
倭王武の上表文

ヤマト王権による国土統一が進んだ古墳時代中期となる5世紀後半、順帝昇明2年(478年)に倭王武が中国南朝のの皇帝に送った「倭王武の上表文」中に以下の記述がある[1]。「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」 ? 『宋書』倭国伝「倭王武の上表文」より大意

倭王武は稲荷山古墳出土鉄剣の銘文中にみえる獲加多支鹵大王、すなわち雄略天皇であると推定されている[1]。上表文によれば「王の先祖が自ら甲冑を纏い、山川を跋渉し、戦を続け、東は毛人55カ国を征し、西は衆夷66カ国を服し、海北へ渡り95カ国を平らげる」とあり、雄略天皇の代にはほぼ国家統一は成っていた様子を窺い知ることが出来る[1]。また、ヤマト王権によって平定されたとされる東日本の諸地域の人々を指して毛人の文字が使用されている点には大いに注目される[1]

日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている[2][要ページ番号]。例えば俘囚の多くが吉弥侯部氏を名乗っているが、吉弥侯部、君子部、公子部は毛野氏の部民に多い姓である[2][要ページ番号]。
飛鳥時代

※日付は和暦による旧暦西暦表記の部分はユリウス暦とする。
国造制

日本の史書であり、神道における神典である『先代旧事本紀』巻十「国造本紀」には、6世紀中頃から後半頃にかけて130の国造の設置時期や系譜について記載されている[3]。それによると国造分布の北限は、太平洋側では亘理地方(思国造)と伊具地方伊久国造)、日本海側では越後平野中部(高志深江国造)と佐渡(佐渡国造)である[3]。この段階において、太平洋側では会津地方を除く福島県全域と宮城県最南部の亘理・伊具地方まで、日本海側では新潟県南半までは国造が置かれているため、すでにヤマト王権の内国地域として支配領域の中に編入されていた[3]。このことから、当時ヤマト王権が「エミシ」の地と観念されていたのは上記の国造が置かれていない地域より以北、すなわち福島県会津地方や山形県全域、新潟県新潟市周辺、宮城県仙台市周辺であったと推測される[3]
大化改新
律令国家成立と城柵官衙の建置

ヤマト王権は皇極天皇4年6月12日645年7月10日)の乙巳の変に始まる一連の国政改革(大化の改新)を画期に律令国家建設に向けての諸政策を進め、地方行政として国郡里制の整備、編戸制の実施、戸籍計帳といった公文書の作成、班田収授法の実施、租庸調雑徭などの徴税が全国へとおよんでいく[4][5]

中央政府(朝廷)は税収の拡大を目的として東北経営を本格化させると、越後平野北半と仙台平野に相次いで城柵官衙を設置した[5]。『日本書紀』によると、日本海側では大化3年(647年)に越国渟足柵(現在の新潟県新潟市)、大化4年(648年)には磐舟柵(現在の新潟県村上市)が設置されている[原 2][原 3][6][5]

『日本書紀』中には太平洋側の城柵設置を示す記事はないものの、郡山遺跡I期官衙(現在の仙台市太白区)が越国渟足柵に対応する陸奥国の城柵遺跡と考えられている[5]。また7世紀代に造営された柵として越国都岐沙羅柵や陸奥国優嗜曇柵が知られている[5]
越後平野と仙台平野

7世紀代に城柵が造営された越後平野、仙台平野、米沢盆地といった地域ではエミシが反乱を起こしたことを伝える史料などは一切ない[5]。これらの地域は弥生時代以来の稲作農耕文化がそれなりに発展し、古墳時代前期より大型古墳の造営など古墳文化の昴揚もみられるため、もともと関東地方中部地方以西の国造制施行地域に住む人々とあまり大きく変わらない農耕文化や信仰文化をもっていたと考えられる[5]


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