首都箱館
総裁
1869年 - 1869年榎本武揚
副総裁
1869年 - 1869年松平太郎
変遷
建国12月15日(1869年1月27日)
解体5月18日(1869年6月27日)
現在 日本 北海道
蝦夷共和国(えぞきょうわこく、英: Republic of Ezo)とは、戊辰戦争末期に蝦夷地(北海道)を支配した旧江戸幕府軍勢力による「事実上の政権」である蝦夷島政府を指す俗称。蝦夷政権、箱館政権、北海道共和国[1][2]とも言う。 慶応3年(1867年)に15代征夷大将軍徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定した。慶応4年(1868年)8月19日夜、海軍副総裁榎本武揚は開陽丸を旗艦とする軍艦4隻(開陽、回天、蟠竜、千代田形)と運送船4隻(咸臨、長鯨、神速、美賀保)の8隻の艦隊を率いて蝦夷地の箱館に向かった[3]。途中仙台で会津戦争で敗走した残党などを吸収して、総勢二千数百名となり、10月20日に鷲ノ木に上陸[3]。上陸後、数日で五稜郭を攻略し、箱館を占領した[3](箱館府知事清水谷公考は敗走した)。 12月15日には蝦夷地全島平定の祝賀祭(蝦夷地領有宣言式)が催され、榎本を総裁とする仮政府の樹立を宣言した[3][4]。 明治元年(1868年)10月に榎本が函館入港中の英仏両艦長に明治新政府との仲介を依頼した「榎本武揚等歎願書」によると、榎本は蝦夷地に向かった目的について、徳川家の禄高が70万石に制限されたことによって禄を離れざるを得ない旧幕臣を蝦夷地に入植させ、農林漁業や鉱業などを興すとともに、ロシア帝国の南下に対する北方警備につかせることを画策したと説明している[3]。 新政府は嘆願を拒否し1869年3月征討軍を派遣、4月9日政府軍は江差北方の乙部に上陸、5月11日箱館を占領した。政府軍参謀黒田清隆は五稜郭にこもる榎本らに降服を勧告、榎本は18日には開城し、新政府による国内統一が完成した[5]。 榎本らは総裁として徳川家の血統を引く者を迎えることを希望していた[3]。一方で榎本は王政復古による「皇国」をあからさまに否定したことはなく、1868年8月の榎本の「檄文」は「王政日新は皇国の幸福、吾輩も亦希望する所なり」と述べつつ「強藩の私意に出で、真正の王政に非ず」と新政府側の諸藩を非難している[3]。 榎本らにより表明された文書に「共和国」の名が現れたことはなく、「共和国」の名は仮政府の周囲の者によって呼ばれるようになったにすぎない[3]。 最初に「共和国(リパブリック)」という表現を使ったのは、1868年11月、英仏軍艦艦長に随行し、榎本と会見した英国公使館書記官フランシス・オッティウェル・アダムズだった。彼が1874年に書いた著書 History of Japan において、箱館政庁を "republic" と紹介し、その後、アダムズの表現に倣う者が大多数となった。 旧幕府脱走軍が鷲ノ木に上陸した後、密偵の小芝長之助らが函館在留の各国領事宛にフランス語で書かれた脱走軍の声明文を届けているが、そこでは「徳川脱藩家臣」(Les Kerais exiles de Toukugawa)という署名が用いられている[6]。 なお、ウィリアム・グリフィスは著書の『ミカド』で「北海道共和国」として紹介している[3]。 戊辰戦争で英、仏、蘭、米、普、伊の6か国は局外中立の立場をとっており、榎本らは局外中立が維持されるよう諸外国の信頼を得る必要があった[3]。榎本らは国際法の交戦団体としては認められなかったが、1868年11月にイギリスやフランスから「事実上の政権 De Facto」に認定されている[3]。
概説
性格
呼称
「事実上の政権」
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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