蜷川幸雄
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にながわ ゆきお
蜷川 幸雄
文化勲章受章に際し文部科学省から公表された肖像写真
生年月日 (1935-10-15) 1935年10月15日
没年月日 (2016-05-12) 2016年5月12日(80歳没)
出生地 日本埼玉県川口市本町
死没地 日本東京都
血液型A型[1]
職業演出家映画監督俳優
ジャンル舞台映画テレビドラマ
活動期間1955年 - 2016年
活動内容#略歴参照
配偶者蜷川宏子(真山知子)
著名な家族蜷川実花(長女)
ピカソ利光(親戚)
公式サイトニナガワカンパニー

 受賞
#賞歴も参照
芸術選奨文部大臣賞1988年
読売演劇大賞
大賞・最優秀演出家賞(1997年
紀伊國屋演劇賞個人賞(2000年文化勲章2010年文化功労者2004年紫綬褒章2001年従三位2016年

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蜷川 幸雄(にながわ ゆきお、1935年昭和10年)10月15日 - 2016年平成28年)5月12日)は、日本演出家映画監督俳優位階従三位勲等文化勲章桐朋学園芸術短期大学名誉教授文化功労者

桐朋学園大学短期大学部芸術科教授彩の国シェイクスピア・シリーズ芸術監督Bunkamuraシアターコクーン芸術監督、桐朋学園大学短期大学部学長(第6代)、桐朋学園芸術短期大学学長(初代)、桐朋学園芸術短期大学芸術科特任教授などを歴任した。
人物・来歴

埼玉県川口市本町出身。両親は富山県出身(父親は旧上新川郡大久保町出身、母親は富山市小中出身[2])。生家は洋服店で、父親は川口オートレース場のオーナーだったこともある。小中学生時代は近所に下宿していた後の立教大学総長浜田陽太郎が家庭教師であった。

1年の留年を経て開成高等学校を卒業。画家を志して東京芸術大学美術学部を受験するが失敗。将来の進路に迷っていた時、偶然「劇団青俳」による安部公房『制服』の公演に接し、衝撃を受けて「劇団青俳」に参加する[3]。俳優として活躍していたが「自分は演出に向いている」と悟り劇団を結成し演出家に転向(それ以降もある時期までは俳優業は続けていた)。アングラ小劇場運動盛んな時期に演出家としてデビューし、若者層を中心に人気を集める。1970年代半ばから商業演劇に活動の場を移し大劇場でのダイナミックな演出で話題作を次々と発表していった。1990年代以降は中劇場の空間を好んで使っている。

蜷川の演出作品は、清水邦夫唐十郎井上ひさし野田秀樹岩松了などの現代劇からギリシャ悲劇シェイクスピアチェーホフなど海外の古典・近代劇に至るまで、多岐にわたる。鮮烈なヴィジュアルイメージで観客を劇世界に惹き込むことを得意とする、現代日本を代表する演出家の1人として海外でも評価が高く「世界のニナガワ」、「蜷川先生」とも呼ばれる。

起用する出演者はトップスターや実力派俳優から人気アイドルまでと幅広く、意表をついたキャスティングで話題を呼んでいる。

蜷川は愛煙家で短気な気質でもあり苛烈な演技指導の厳しさでも知られ、「口よりも手よりも先に、物(靴や金属製の灰皿など)が飛んでくる」と言われる程であった[4]。一方で躁うつ病を患っていた俳優には穏やかな表情で見守るなど[5]、人情的で心優しく「他人に対しても同様に、自分に対しても厳しい」姿勢で仕事に取り組んでいたため、数多くの俳優やスタッフから慕われた。彼の指導を受けたことで役者としての実力をつけた俳優やタレントは数多い。「一人でも手を抜いたら舞台は壊れる。“全体に気を配っているぞ”という意思表示だよ」と生前語っていた。

現代演劇のフィールド外でも、小澤征爾の指揮による歌劇さまよえるオランダ人』(リヒャルト・ワーグナー作曲)、宇崎竜童作曲によるミュージカル『魔女の宅急便』、尾上菊之助の依頼を受け菊五郎劇団と組んだ歌舞伎『NINAGAWA十二夜』などを演出、ほかにも映画、テレビドラマ、コンサート、ファッションショーなど、さまざまな媒体や舞台での演出を手掛けている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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