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この項目では、尾張国の国人から徳島藩主家・華族の侯爵家になった蜂須賀氏について説明しています。肥後国の蜂須賀氏については「蜂須賀氏 (肥後国)」をご覧ください。
「蜂須賀」はこの項目へ転送されています。愛知県あま市の地名については「蜂須賀 (あま市)」をご覧ください。
蜂須賀氏
蜂須賀万字
本姓称・清和源氏斯波氏支流
家祖称・蜂須賀景成
蜂須賀氏(はちすかし)は、武家・華族だった日本の氏族。蜂須賀正勝(小六)が羽柴秀吉に仕えて大名となり、その息子の家政が1585年に阿波国徳島に入封。江戸時代にも徳島藩25万石の藩主を世襲し続け、維新後には華族の侯爵家に列した[1]。 新井白石が作成した『藩翰譜』(または『寛政重修諸家譜』)の中から作成された系譜の『蜂須賀氏系図』によると、下野源氏(足利氏)の足利泰氏、もしくは斯波氏の裔を自称する。しかし、多くの史家がこれを疑問を抱いており、蜂須賀氏の出自に関しての確証は未だにない[注釈 2]。 『蜂須賀家記』考異によると、正勝はもともと藤原姓を称しており、松平氏が藤原姓から源姓に改めたのに従って、忠英の代になって源姓に改めたとしている[2]。また伝承として、上野源氏(新田氏)一門の里見氏流鳥山氏の支族の肥後蜂須賀氏の当主の正家(能祐の孫)の娘(斯波氏に嫁いだ)の子の正秋の後裔で、尾張国中村に移住したとも伝わる。 蜂須賀氏の系図で信憑性があるのは、『寛政重修諸家譜』・『系図纂要』に記されている正利あたりからで、正利・正勝・家政と3代続いて、小六(小六郎)または彦右衛門を通称としている。 それ以前については異説が多数あり、極めて不確かである。南北朝時代に蜂須賀氏の遠祖とされる景成 蜂須賀氏が用いる家紋は複数ある。足利義昭から正勝が賜ったとされる桐紋(五三桐)を、主君羽柴氏の家紋を憚って、転じた柏紋(抱き柏)。そして平氏打倒の挙兵の際に源頼政が高倉王(以仁王)より賜ったという万字(左万字)(蜂須賀万字)、稲丸[3]などである。桐紋や万字は源姓を由来にする家紋で、特に万字紋は(少々疑わしいが)、摂津源氏頼弘流を示すものである。 美濃国に隣接する尾張国海東郡蜂須賀郷(愛知県あま市蜂須賀)を領した国人で、川並衆であったともいう。正勝の曾祖父・正永の代までは尾張守護の斯波氏に仕えていたが、斯波氏が衰えたため、父の正利の代には美濃国の斎藤氏に従った。 上述の正勝(小六)の代になって蜂須賀氏は織田氏の配下に属して、歴史の表舞台に登場する。正勝は織田氏の武将羽柴秀吉の与力として活躍し、1581年(天正9年)に播磨国龍野に入封して大名となる[4]。その嫡子蜂須賀家政は1585年(天正13年)に阿波国徳島に入封し、阿波国一国17万3000石(18万6000石とも)の大名となった[5]。 秀吉の死後、関ヶ原の戦いにおいて、家政の子の蜂須賀至鎮が東軍に与したことにより所領の阿波国を安堵され、さらに大坂の陣後に淡路国一国を加増され、2ヶ国都合25万7000石を領した[4]。 子孫は外様大名の大藩徳島藩の藩主として、代々従四位下の位階と阿波守や淡路守の官職を世襲するとともに[6]、徳川将軍家から松平の名字[7]と偏諱を受けた。1678年(延宝6年)蜂須賀綱矩の代に隆重に5万石を分与して支藩の富田藩を創設しているが、1725年(享保10年)に富田藩主蜂須賀正員が徳島藩宗家に襲封したため富田藩は宗家に還付された[8]。
出自
家紋
経歴蜂須賀家政銅像/徳島市
封建主義時代