凡例蜂須賀斉昌
蜂須賀斉昌像
時代江戸時代後期
生誕寛政7年7月10日(1795年8月24日)
死没安政6年9月13日(1859年10月8日)
改名昭昌、斉昌
戒名峻陵院殿
墓所徳島県徳島市の万年山墓所
官位正四位上、阿波守、侍従
幕府江戸幕府
主君徳川家斉→家慶
藩阿波徳島藩主
氏族蜂須賀氏
父母父:蜂須賀治昭、母:辻備
兄弟昭尹
蜂須賀 斉昌(はちすか なりまさ)は、阿波国徳島藩の第12代藩主。 寛政7年7月10日(1795年8月24日)、蜂須賀治昭の次男として生まれる。兄弟たち同様に父より偏諱を受け、諱を初め昭昌(あきまさ)と名乗る。 文化6年(1809年)、第11代将軍徳川家斉から松平の名字を授与される[1]とともに、その偏諱を授かり斉昌に改名する。 文化10年(1813年)9月、父・治昭の隠居にともない跡を継ぐ。この頃になると徳島藩でも財政が悪化していたため、藩政改革が必要となっていた。しかも幕府から甲斐国の河川の築堤などを命じられ、新たに4万5000両も拠出するなど、領民に多大な負担をかけた。 子に恵まれなかったため、文政10年(1827年)閏6月3日に家斉の二十二男・斉裕を養嗣子に迎えた。やがてこの斉裕が将軍の実子ということで天保6年(1835年)12月に斉昌と同じ従四位上に叙せられると、養父としての立場がないと訴えて、天保10年(1839年)12月には異例の正四位上叙任が認められるが、その際に老中水野忠邦に対して礼銭名目に4000両もの賄賂を贈ったという噂が庶民にまで広まった(『藤岡屋日記』)[2]。 このため、斉昌は財政再建のために徳島藩の特産品とも言えた煙草の専売に乗り出した。さらに、「煙草御口銀」という新たな税を課した。このため、領民は天保12年12月4日(1842年1月15日)、600人近くが伊予国今治藩に逃散し、その翌年には一揆(山城谷一揆)も起こった。このとき、徳島藩は一揆の首謀者を処罰できなかったと言われており、領民の怒りが凄まじかったことがうかがえる。 天保14年(1843年)、家督を斉裕に譲り、その後の安政6年(1859年)9月13日、65歳で死去した。法号は峻陵院殿。墓所は徳島県徳島市の万年山。
経歴
興源寺の墓所(徳島県徳島市下助任町)
万年山墓所の墓所(徳島県徳島市眉山町)
系譜
父:蜂須賀治昭(1758-1814)
母:辻備
正室:?姫(1792-1820) - 文姫、井伊直中の長女
継室:鷹司并子(1799-1837) - 善性院、鷹司政煕の娘
養子:蜂須賀斉裕(1821-1868) - 徳川家斉の二十二男
養女:蜂須賀量子(1832-1907) - 伊勢津藩主藤堂高潔正室、実父は蜂須賀昭順
側室:三宅巻
側室:廣田里
偏諱を与えた人物
池田昌豊(第8代藩主蜂須賀宗鎮の(男系)曾孫)
外部リンク
熱海市立図書館 - ⇒主要貴重地域資料リスト
⇒デジタルライブラリー 「熱海記行」文政9年(1826年) 徳島藩儒官・藤井彰民が1815年蜂須賀氏正室[3][4]の熱海湯治に随行した折の紀行文。
脚注^ 村川浩平『日本近世武家政権論』(近代文芸社、2000年)
^ 藤田覚『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年) ISBN 978-4-642-03353-4 P309-310
^ 「夫人井伊氏」
^ 先代・蜂須賀治昭の正室も井伊氏だが、天明6年(1786年)に没している。1815年の藩主は斉昌。
表
話
編
歴
蜂須賀氏徳島藩12代藩主 (1813年 - 1843年)
蜂須賀至鎮1601-1620
蜂須賀忠英1620-1652
蜂須賀光隆1652-1666
蜂須賀綱通1666-1678
蜂須賀綱矩1678-1728
蜂須賀宗員1728-1735
蜂須賀宗英1735-1739
蜂須賀宗鎮1739-1754
蜂須賀至央1754
蜂須賀重喜1754-1769
蜂須賀治昭1769-1813
蜂須賀斉昌1813-1843
蜂須賀斉裕1843-1868
蜂須賀茂韶1868-1871
廃藩置県