蜀書
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二十四史

二十四史
司馬遷史記
班固漢書
范曄後漢書
陳寿『三国志』
房玄齢等『晋書
沈約宋書
蕭子顕南斉書
姚思廉梁書
姚思廉陳書
魏収魏書
李百薬北斉書
令狐徳?等『周書
魏徴長孫無忌等『隋書
李延寿南史
李延寿北史
劉?等『旧唐書
欧陽脩宋祁新唐書
薛居正等『旧五代史
欧陽脩新五代史
脱脱等『宋史
脱脱等『遼史
脱脱等『金史
宋濂等『元史
張廷玉等『明史
二十六史
柯劭サ等『新元史
趙爾巽等『清史稿
その他
班固劉珍蔡?等『東観漢記










『三国志』(さんごくし)は、中国西晋代の陳寿の撰による、三国時代について書かれた歴史書後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの時代を扱う。二十四史の一。
目次

1 成立過程・版本

2 構成

3 裴松之の注

4 後世の評価

5 内容

5.1 魏志(魏書)

5.2 蜀志(蜀書)

5.3 呉志(呉書)


6 裴松之の注に引用された主要文献

7 日本語訳

8 『三国志』と『三国志演義』

9 注釈

10 出典

11 関連項目

12 外部リンク

成立過程・版本

成立時期は西晋による中国統一後の280年以降とされる[1]

現在通行している版本はおおむね4種ある。

百衲本(宋本) - 紹興年間(1131年-1162年)の刻本が現存する最古の底本である。ただし一部欠落があるため、紹熙年間の刻本で補い、張元済が民国25年に編した。

武英殿本(殿本) - 明代の北監本を底本に陳浩らが乾隆41年に編した。政府部局である武英殿書局による欽定本。

金陵活字本(馮本) - 明代の南監馮夢禎本を底本に曽国藩が設立した金陵書局が同治9年(1870年)に編した。

江南書局本(毛本) - 毛氏汲古閣本を底本に曽国藩が設立した江南書局が光緒13年(1887年)に編した。 

また、20世紀に発見された写本としては以下のものがある。

虞翻陸績張温伝残巻 - 1920年代にトルファン市出土との伝。影印は早くから流通しており、中華書局版『三国志』(北京、1959年)の巻頭にも書影があるが、原写本は現在所在不明。[2]

虞翻伝残巻 - 20世紀初に敦煌某寺で出土との伝。10行、100余字が残る。台東区立書道博物館所蔵。重要文化財

歩?伝残巻 - 20世紀初に莫高窟で発見された敦煌文献の一つ。25行、440余字が残る。

呉主伝残巻 - 1965年トルファン市の仏塔から発見された。40行、570字が残る。[3]

臧洪伝残巻 - 1965年トルファン市の仏塔から発見された。21行、370余字が残る。

韋曜華覈伝残巻 1909年トルファン市火焔山トユクの土中から出土。24行、590余字が残る。台東区立書道博物館所蔵。重要文化財。

構成

紀伝体の歴史書であり、「魏書」30巻(「本紀」4巻、「列伝」26巻)、「呉書」20巻、「蜀書」15巻の計65巻から成る。この他、陳寿の自序(序文)が付されていたといわれるが、現存しない。また、表(年表)や(天文・礼楽などの記録)が存在しない。

三国がそれぞれ『魏国志』『蜀国志』『呉国志』として、独立した書物としても扱われていたという[4]。『呉国志』『魏国志』『蜀国志』の書かれた前後関係は不明である。三国の記述を独立させ、合わせて『三国志』としたところに本書の特徴がある。

のみに本紀が設けられているので三国のうち魏を正統としているものと判断されている。他の魏を正統とした類書では、『魏書』など魏単独の表題とし、蜀(蜀漢)は独立した扱いを受けていない。また、西晋東晋十六国時代を扱った正史『晋書』も、北の諸国家(十六国)はほとんど「載記」(地方の覇者の伝記)として扱われ、やはり独立した扱いを受けていない。南北朝時代北魏を正統とした『魏書』(魏国志とは別)では、南朝のなどの皇帝の伝記が、やはり「島夷」として列伝に入れられ、独立した扱いを受けていない[注釈 1]。こうしたことからみても、魏・呉・蜀をそれぞれ独立した扱いをしている本書は魏を純粋な正統と意図した歴史書であるとはいいきれない[注釈 2]。その一方で、漢の正統としての蜀にも大いに配慮をして書かれていることは多くの日本・中国の研究者が従来から指摘している。「蜀書」の末尾には本伝の補足として楊戯の「季漢輔臣賛」を全文収載している。これについて銭大マ「三国志弁疑序」では「楊戯伝に『季漢輔臣賛』を載せて数百言も費やしたのは、魏・呉よりも蜀を尊んだものである。季漢(漢の末期)と言う言葉を残したのは、蜀王朝が実際は漢王朝であることを明らかにしたものだ。」として蜀(蜀漢)の遺臣である陳寿の故国顕彰の表れであるとしている。

『三国志』には、魏に朝貢した北方や東方、西方の民族の記事は存在するものの、蜀(蜀漢)や呉に朝貢していた可能性が高い民族の国々については伝が立てられていないという指摘がある[注釈 3]。こうしたことは、『三国志』が当時のことを正確にもれなく記した史書であるかどうかの疑問を提示するものでもある。編纂当初から魏を正統として編纂したとみる日本の研究者の中には、蜀(蜀漢)と呉はあくまでも地方政権としての扱いなので書けなかったのだと解釈する意見もあるが[注釈 4]、編纂意図として魏を正統としていたかは前述のように定かでない。

日本に関する記事としては、「魏書」烏丸鮮卑東夷伝に邪馬台国についての記述が見られる。日本ではこの部分(魏書東夷伝倭人条)を「魏志倭人伝」と通称している。
裴松之の注

陳寿は『三国志』を記述するにあたって信憑性の薄い史料を排除したために、『三国志』は非常に簡潔な内容になっていた[注釈 5]。そこで、南北朝時代の宋の文帝裴松之に注を作ることを命じ、裴松之は作成した注を、元嘉6年(西暦429年)上表と共に提出した。

裴松之の注の特徴は、訓詁の注といわれる言葉の意味や読み、典故などを説明するものが少なく、陳寿の触れなかった異説や詳細な事実関係を収録した点である。陳寿の『三国志』完成後の出来事も補われている[注釈 6]。すでに失われた書物からの引用も多く、貴重な史料である。


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