虻田郡(あぶたぐん)は、北海道(胆振国)胆振総合振興局・後志総合振興局の郡。
人口41,208人、面積1,527.9km²、人口密度27人/km²。(2024年3月31日、住民基本台帳人口)
以下の6町2村を含む。
後志管内 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記6町2村から洞爺湖町の一部(川東・岩屋・早月)を除き、山越郡長万部町の一部(静狩)を加えた区域にあたる。 「虻田」の由来については虻田町の項目を参照。なお、「虻田」の「虻」の字は常用漢字に加える予定はない。 江戸時代の虻田郡域は東蝦夷地に属し、松前藩によってアブタ場所が開かれていた。寛政年間になり、それまで地形が険しく道が途絶え舟に乗り換えていた区間を、幕命をうけた松前藩によって山越郡と虻田郡の境を越える礼文華、弁辺等の山道(国道37号静狩峠の前身)が開削され、渡島国の箱館から道東や千島国方面に至る陸路が繋がっている。 江戸時代後期、国防のため寛政11年虻田郡域は天領とされ、後に蝦夷地各地に馬を供給する馬産牧場であった有珠・虻田牧場が開かれ馬頭観音碑が入江地区に建立されている。享和3年には幕命で警固にあたった陸奥弘前藩によって長万部 - 虻田間の道路が改修されている。また、虻田場所請負人和田茂平によって文化元年には恵比須神社が、文化4年には稲荷神社 虻田郡域では古くから火山活動が盛んで、有珠山は寛文3年、明和6年、文政5年、嘉永6年と江戸時代だけでも頻繁に噴火しており、特に文政5年の噴火では火砕流によって虻田の集落が壊滅的な被害を受け多数の犠牲者を出し、有珠・虻田牧場も多くの馬を失う被害を受けた。慶応3年4月漁場請負人和田屋茂兵衛によって豊浦神社
ニセコ町(にせこちょう)
真狩村(まっかりむら)
留寿都村(るすつむら)
喜茂別町(きもべつちょう)
京極町(きょうごくちょう)
倶知安町(くっちゃんちょう)
郡域
歴史
郡発足までの沿革
郡発足以降の沿革
明治2年
8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、胆振国および虻田郡が設置される。開拓使が管轄。
9月7日(1869年10月11日) - 大泉藩の領地となる(北海道の分領支配)。