虻田町
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あぶたちょう
虻田町
洞爺湖


虻田町旗
虻田町章


廃止日2006年3月27日
廃止理由新設合併
虻田町、洞爺村洞爺湖町
現在の自治体洞爺湖町
廃止時点のデータ
日本
地方北海道地方
都道府県北海道 胆振支庁
虻田郡
市町村コード01572-5
面積66.85 km2
総人口9,325人
(住民基本台帳人口、2005年12月末日)
隣接自治体伊達市壮瞥町洞爺村豊浦町
町の木ナナカマド
町の花すみれ
虻田町役場
所在地049-5692
北海道虻田郡虻田町字栄町58番地
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度33分04秒 東経140度45分51秒 / 北緯42.55122度 東経140.76414度 / 42.55122; 140.76414座標: 北緯42度33分04秒 東経140度45分51秒 / 北緯42.55122度 東経140.76414度 / 42.55122; 140.76414

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虻田の海岸

虻田町(あぶたちょう)は、北海道南西部、胆振支庁管内虻田郡にあった町。

噴火湾(内浦湾)と洞爺湖に挟まれた場所にあった。洞爺湖岸には洞爺湖温泉があり、東の壮瞥町にある有珠山昭和新山観光の拠点としての役割も担う道内有数の観光地であった。

本項では、2006年平成18年)3月27日の虻田町廃止時点での情報を記載する。
地理

胆振支庁西部にあり、内浦湾北岸に位置する。長万部室蘭のほぼ中間にあり、これらを結ぶ道央自動車道国道37号、JR室蘭本線などが海岸沿いを通っている。また、札幌から中山峠を越える中山国道(国道230号の一部)の終点にもあたり、重要な交通拠点となっている。

町の西部は洞爺湖カルデラ壁から続く斜面が海へと迫り海食崖をなすなど地形は険しく、ここを通る道路・鉄道は多くのトンネルを出入りする。

南部は赤川や板谷川が生み出した平地となっており、砂浜の海岸を持つ。洞爺駅や役場のある栄町はこの平地の北西部、赤川右岸にある。虻田町南端から伊達市有珠町にかけては、噴火湾では珍しい出入りの激しい海岸線がある。これは約7,000年前の有珠山の爆発による噴出物が海にせり出して作られた地形で、岬状に突出した部分の影に虻田漁港が作られている。

北東部の洞爺湖に面した地域との間には急峻なカルデラ壁があり、ここを越える国道230号は大きく蛇行しながら湖岸へと降りていく。湖南岸の洞爺湖温泉は1910年の有珠山の火山活動後に発見された温泉で、大型ホテルが多くある。西岸の月浦地区、その西の高台にある花和地区、そして隣接する洞爺村豊浦町にかけては牧場が点在する。

洞爺湖は洞爺カルデラ内にできたほぼ円形の湖で、中央にある中島の最高点を中心に虻田町・洞爺村・壮瞥町に三分されており、虻田町の領域となるのは南西の4分の1弱、弁天島全域と中島・観音島の一部を含む部分である。洞爺湖は海との距離が近い割には湖面標高が約84mと高い。このため中心市街にほど近い青葉町まで導水パイプを敷設し、高低差を利用した水力発電(出力19,500kW)が行われている。

気候は海洋性で冬でも温暖、積雪も少ない。

山: 小有珠 (557m)、三角山 (310m)

河川: 板谷川(二級河川)、トコタン川(準用河川)、赤川、入江川、ホロナイ川、小花井川

湖沼: 洞爺湖

隣接していた自治体

胆振支庁 :
伊達市壮瞥町洞爺村豊浦町

地名の由来「アブタ」とは、永田方正著『北海道蝦夷語地名解』(1891年)ではアイヌ語の「アプタペッ」が語源で「ヲ作リタル川」(釣り針を作る川)の意としている。また『北海道駅名の起源』(1950年)ではアイヌ語の「ハプタウシ」が語源で「いつもウバユリの球根を掘るところ」の意とする説を載せている。
歴史
先史時代
南部の入江地区の高台には
入江貝塚高砂貝塚(国の史跡)があり、縄文時代からこの地区に集落があったことを物語る。この貝塚には貝が少なく、海獣や魚の骨が多く出土する。また、埋葬されたと見られる人骨も多く発見されている。「アブタ」という地名は、古くは1704年(宝永元年)の廻国僧正光空念の記録に「あふた」として見える。また空念は「あぶた村おとな」(アブタ集落の長)として「ヤいれんが」という人名を記録している。他の史料では函館市中央図書館所蔵『松前蝦夷図』に「アフタ」、1727年(享保12年)成立の『松前西東在郷並蝦夷地所附』には「あふた」、1739年頃(元文4年頃)成立の『蝦夷商賈聞書』には「アブタ」と記録されている。
アブタ・コタン
この地区の集落が登場する最初の文献は津軽藩の正史である『津軽一統志』で、シャクシャインが蜂起した1669年(寛文9年)のものである。この中で虻田は旧称である「おこたらへ」と記されており、翌年に津軽藩士・則田安右衛門が記した『寛文拾年狄蜂起集書』では14-15軒のアイヌの家があると書かれている。松前藩の支配下に入ったアブタ・コタンにはアブタ場所が置かれた。「場所」とは松前藩が家臣にアイヌとの交易権を与えた知行地のことである。アブタ場所には他にレブンゲ、オプケシ、ベンベ、フレナイの各コタンがあり、アブタ・コタンはこれらからなる地域の中心集落であったようだ。アブタ場所で取引された海産物にはコンブニシン、干し、イリコ(干しナマコ)などがあった。特にイリコは江戸末期には中国へ輸出されており、蝦夷産は美味として珍重されたという。
有珠・虻田牧場と有珠山の文政噴火
虻田に和人の定住が見られるのは、1799年(寛政11年)に幕府が蝦夷地を仮直轄として以降のことである。蝦夷奉行の戸川安論が蝦夷産馬の性質の良さを気に入り、これを殖やすための直轄牧場開設を幕府に進言し、有珠・虻田牧場がこの地に建設された。3頭の雄馬と9頭の雌馬をもって開場したのは1805年(文化2年)のことである(このとき建立された馬頭観音碑が入江地区に現存しており、道指定有形文化財になっている)。この牧場の牧士頭取となる村田卯五郎は、1800年(寛政12年)に虻田で定住をはじめており、虻田町ではこの年をもって開基としている。まだ道路整備もままならず、険しい地形の多い蝦夷地では、馬は非常に重要な移動手段であった。有珠・虻田牧場は蝦夷地各地に馬を供給する役割を担った。繁殖や買い入れにより開場からわずか4年の1809年には馬は147頭に増えた。さらに後になると4箇所に牧場を持ち、馬の数は1000頭を超えるようになる。蝦夷地が松前藩の管轄に戻された翌年、1822年(文政5年)に有珠山が噴火した。火砕流を伴う大規模なもので、ふもとのアブタ・コタンを焼き尽くした。村田卯五郎や場所請負人・和田屋茂兵衛らの和人、そして多くのアイヌ人が犠牲となった。現在の入江地区にあったアブタ・コタンは「トコタン」、つまり廃村とされ、虻田市街の方へ移住を余儀なくされた。有珠・虻田牧場もまた2,500頭近くまで増えていた馬のうち1,400頭余りを失う大被害を受けた。しかし残った馬により牧場は存続され、1870年(明治3年)まで馬の供給と改良を行った。
明治の虻田
明治に入ると蝦夷地は開拓使の管轄下に置かれ北海道と名を変えたが、当初のうちは一部の地域を旧藩や寺社などに分領支配させていた。虻田は1869年より約1年間、庄内藩(改称して大泉藩)の支配下に入り、1871年には伊達以南を支配していた旧亘理藩(仙台藩の支藩)藩主・伊達藤五郎邦成の領地となった。翌年ようやく開拓使室蘭出張所の管轄下に置かれ、西紋鼈戸長役場に属した。虻田に虻田郡各村戸長役場がおかれ、西紋鼈戸長役場より分離独立したのは1880年のことである。当時の虻田村はほぼ現在の虻田郡全体にあたる広い地域であったが、明治30年前後から羊蹄山麓で開拓により集落ができるにつれ、これらを徐々に分村していくことになる(沿革の項を参照)。このころの虻田市街は内陸部に入植する開拓者達の中継地として、あるいは開拓に必要な物資の集散地として急速な発展をした。
有珠山の噴火
町の東方にそびえる有珠山は日本で最も活発な火山の一つであり、近年では25年から50年という周期で大規模な噴火を繰り返している。その至近にある虻田は何度も噴火による被害を受けてきた。江戸時代には前述した1822年の文政噴火のほか、1663年(寛文3年)、1769年(明和6年)、1853年(嘉永6年)に火砕流を伴う噴火活動があり、そのたびに死傷者を出した。1910年(明治43年)の噴火では水蒸気爆発泥流が発生し死亡者が出た。虻田町と壮瞥町の境では地殻変動が起こり、四十三(よそみ)山(昭和新山の形成後は、「明治新山」の名も定着した。)が形成された。大きな被害を生んだこの噴火であったが、洞爺湖岸に温泉を湧出させ、虻田発展の契機を作ることとなる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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