虞喜
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虞喜人物情報
生誕
建衡2年(270年
揚州会稽郡余姚県
死没永和元年(345年
学問
研究分野天文学
特筆すべき概念ヒッパルコスとは独立して地球の歳差運動を発見
主要な作品『安天論』『志林』
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虞 喜(ぐ き[1]270年 - 345年[2][注 1])は、中国天文学者歴史家は仲寧。古代ギリシャの天文学者ヒッパルコスとは独立して、地球の歳差運動を発見した[1][3]揚州会稽郡余姚県の人。三国時代騎都尉虞翻の一族で、父の虞察は呉の征虜将軍、弟の虞預は十八家晋史の著者の一人として知られる[4]
生涯

若くして学に親しみ、故事を好んだ[5]西晋懐帝東晋明帝成帝康帝から任官するように詔が出たが、いずれも辞去した[5]。子はなく、76歳で他界した[5]
業績

冬至点が年々西に移動していることを発見し、その率を50年に1度(現在の0.986°に相当)であるとした[1]。これは古代ギリシャのヒッパルコスとは独立した歳差運動の発見となった[1]。この発見は、後に南朝祖沖之が編纂した大明暦に取り入れられた[3]

天地の構造については、宣夜説に基づいて書かれた著書『安天論』の中で渾天説蓋天説を批判した[1][6]。大叔父にあたる、虞翻の六男の虞聳が著書『穹天論』で「天は鶏卵のようなドーム型をしている」としたのに対して、虞喜は『安天論』の中で「天の高さは窮まりなく、地の深さは測ることができない」とした[1][6]

また『晋書』儒林伝等によれば、史書の『志林』30篇を記した。『三国志』の裴松之注にてその断片が伝わる[7]
関連項目

于吉 - 『志林』によると、順帝の時代、薬草を採りに山に入ったところ、曲陽の水辺で白い絹に朱の罫を引いた神書『太平清領道』百余巻を手に入れたとされる。虞喜は、「于吉は既に100歳近く、このような高齢者に対して敬意を表し慈しむのが名君たるものの為政の要諦である。ましてやその罪は死罪たるものではない。明らかに孫策の過ちであり、不名誉なものである。」としている。


爛柯 ‐『志林』(太寧3年(325年)刊)に記されているものが最も古いという。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 281年 - 356年説もあり[1]

出典^ a b c d e f g 原恵 著、中山茂 編『天文学人名辞典』(初版第一刷)恒星社〈現代天文学講座〉、1983年3月25日、217頁。 .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}NCID BN00165458。 
^ 張慶民『干宝生平事跡新考』
^ a b 中村士『東洋天文学史』(初版第一刷)丸善出版〈サイエンス・パレット〉、2014年10月30日、57頁。ISBN 978-4-621-08862-3。 
^  “巻八十二 列傳第五十二” (中国語), 晋書, ウィキソースより閲覧。 
^ a b c  “巻九十一 列傳第六十一 儒林傳” (中国語), 晋書, ウィキソースより閲覧。 
^ a b  “巻十一 志第一 天文上” (中国語), 晋書, ウィキソースより閲覧。 
^ ちくま学芸文庫正史 三国志 8』p.311-312


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