虚除権渠
[Wikipedia|▼Menu]

虚除 権渠(きょじょ けんきょ、生没年不詳)は、中国五胡十六国時代に活動した反乱勢力の首領。上郡出身の夷人句渠知の乱に乗じて自立し、秦王を自称した。
生涯

虚除権渠は上郡に割拠する夷人の酋長であった。

大興3年(320年)、巴?族の酋長である句渠知が挙兵すると、周辺の巴?族・?族羌族羯族30万人以上が決起した。虚除権渠もこれに呼応した。関中は大混乱に陥り、昼間でも城門が閉ざされるようになった。劉曜游子遠に鎮圧を命じ、游子遠は陰密に進攻すると、瞬く間に句渠知を撃破して乱を平定した。

游子遠が軍を転進させて隴右に入ると、虚除権渠は?族・羌族十万家余りを纏め上げて游子遠に対抗し、険阻な地に拠り秦王を名乗った。游子遠が虚除権渠の砦に接近すると、虚除権渠は迎撃に出たが、5度戦っていずれも敗れた。虚除権渠は大いに恐れ、投降しようとしたが、子の虚除伊余は諸将へ「かつて劉曜が親征してきた時も、我らには何ら問題にはならなかった。游子遠如きにどうして降伏などする必要があるのか」と述べ、精鋭5万を率いて出撃した。早朝には虚除伊余の軍勢は游子遠の砦門に到達した。游子遠は戦わずに守りを固めた。

敵軍の弱気な姿勢を見た虚除伊余は、次第に驕りが見えるようになった。これを見た游子遠は虚除伊余の陣営に夜襲を掛けた。虚除伊余の兵は大いに乱れ、夜明けには大勢が決した。游子遠は虚除伊余を生け捕りにし、その将兵をことごとく捕虜とした。虚除権渠は恐れて、髪を振り乱し顔に傷をつけて游子遠に投降した。

西戎の中では、虚除権渠の部族が最も強勢であり、みな虚除権渠の後ろ盾を得て、前趙へ反抗していた。そのため、虚除権渠が降伏すると、全ての西戎が前趙に服属し、大乱は平定された。

その後、虚除権渠は游子遠の上表により征西将軍に任じられ、西戎公に封じられた。また、虚除伊余とその兄弟、部落20万人余りと共に長安に移された。この後の虚除権渠の動向は不明である。
参考文献

晋書』巻103 載記第3

資治通鑑』 第91巻










五胡十六国時代の国家・政権
五胡

匈奴

前趙攣?部

鉄弗部

北涼(盧水胡)

鮮卑

段部

慕容部吐谷渾 | 前燕 | 後燕 | 西燕 | 南燕

拓跋部 | 北魏 | 南涼

西秦(乞伏部)

宇文部



後趙

?

仇池

成漢(巴?)

前秦

後涼



後秦

宕昌国

ケ至


五胡以外

漢族

東晋

前涼

冉魏

西涼

北涼(段氏)

桓楚

後蜀

北燕(馮氏)

高句麗

北燕(高氏)

丁零

?魏


その他の政権
(僭主)

丘沈

陳敏

劉柏根

胡亢

銭?

杜曾

杜?

王如

虚除権渠

司馬保

句渠知

陳安

慕容仁

侯子光

黄韜

段龕

劉顕 (後趙)

劉芒蕩

杜洪

張?

段勤

張平

王午

蘇林

呂護

劉康

范賁

蕭敬文

梁犢

李弘

李高

姚襄

張育

司馬勲

苻洛

劉顕 (独孤部)

鮮于乞(中国語版)

康寧(中国語版)

劉黎(中国語版)

魏曷飛(中国語版)

法長(中国語版)

張超(中国語版)

苻広(中国語版)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:8565 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef