この項目では、事実とはことなる言葉、などの一般的な概念について説明しています。その他の作品名などについては「嘘 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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フェイクニュースの見分け方。
嘘(うそ)は事実ではないこと[1]。人間をだますために言う、事実とは異なる言葉[1]。偽りとも。
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は「?」である。この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "嘘"
そもそも嘘に定義を与えることは難しい。
言語哲学者の和泉悠は嘘とは何かについて次のように述べている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「いや、?の定義なんて簡単に与えられるよ。嘘とは、正しくないことをいうことだ。嘘は人をだますことだ。」などと皆さんは思われるかもしれません。
しかし、これらは大まかな特徴であって、正確な定義には程遠いのです。(中略)誤解や間違いや証拠不足により、事実と異なる発言をした人に「あなたは嘘をついた」と評価することはできません。(中略)では、「嘘は人をだますことだ」という提案はどうでしょうか。誰かが嘘をつくとき、その人物[注 1]は間違ったことを言っていることを自分で分かっています。嘘つきは、発言が事実と一致しないにもかかわらず、それを承知の上で、相手にはその間違った内容を信じさせようと発言しています。人をだます、欺くために何かをいう、これはまさに典型的な嘘だと考えられるでしょう。—和泉悠、悪い言語哲学入門、[2]
アウグスティヌスは次のような定義を与えているアウグスティヌスによる欺瞞としての?の定義
「AがBにpだと嘘をついた」は次のように定義される。
AがBにqだといった。
Aはqが偽であると認識している。
Aはqが真であるということにより、Bをだましてqが真であると思わせようと意図した。
以上3項目を満たしたとき。—アウグスティヌス、『De Mendacio』ならびに『Contra Mendacium』、[3][4]
嘘とは事実に反する事柄の表明であり、特に故意に表明されたものを言う。
嘘の意を含む「ガセ」とは、一部の業界で使用されていた元隠語が一般に普及したものであり、もともとは「偽物」のことである。
アウグスティヌスは『嘘をつくことについて』(395年)と『嘘をつくことに反対する』(420年)の二論文において、嘘について「欺こうとする意図をもって行われる虚偽の陳述」という定義を与えている。この古典的定義は中世ヨーロッパの言論・思想界に大きな影響を与えた[5]。
嘘の歴史について語るとき、欧米圏では、旧約聖書に登場する話、カインが弟アベルを殺した後、アベルの行方を問われたカインが「知りません。私は永遠に弟の監視者なのですか?」と答えたことに言及され、それが「人類の最初の嘘」などと語られることが多い。「カインとアベル」も参照
日本の古事記では天探女と呼ばれる神が嘘をつき、結果派遣された神が死ぬという話が載っている。
日本語の「嘘」の語源は古語の「ウソブク」という言葉が転化したものである[6]。ウソブクという言葉は口笛を吹く、風や動物の声といった自然音の声帯模写、照れ隠しにとぼける、大言壮語を吐く、といった多義的な使われ方をしていた。また、独り歌を歌うという意味もあり、目に見えない異界の存在に対し個人として行う呪的な行為を指した。中世に入って呪的な意味が薄れ、人を騙すといった今日的な「嘘」が一般に使われるようになったのは中世後期になってからのことである[6]。
偽りと嘘には古くは明確な区別があり現在の東京近郊地域でのみ嘘を偽りの意味で使っており、その他の地域ではおどけ戯れの意味であったとされる。また、嘘と似た言葉に欺くというのがあるがあれは仇と元は同じであったとされる。[7]
鷽(うそ)という鳥の名前は鳴き声から来ており、人間が嘘をつくときに真面目らしくない作り声をしていてその声に似ているということで名前となった[8]
多くの文化に於いて、基本的に、嘘は悪いこと、とされる。嘘をつくことは信用、信頼を失う。だが、嘘の中には文化的に許容されるものがある。どのような嘘が文化的に許容されるかは、その文化ごとに異なる。どこの文化でも我欲や虚栄心によってつく嘘は悪いものとされている。
人を救うため、人を傷つけないためにつく嘘もある。仏教では「人に矛盾したことを吹き込み争いを煽ること」は「両舌」(嘘つきの別名である二枚舌の語源)という十悪の罪になるが、人を救うため、人を悟りへと導くために当面の嘘をつく、という方法もとられることがある。大乗仏教国である日本では「嘘も方便」ということわざもあり、人を救うためということならばおおらかに許そうとすることがある。
イギリス等では、他人を喜ばせるための嘘は「white lie(白い嘘)」とする。
相手に気に入られようとして、自分が本当に思っているよりも相手を良いと思っているかのように言うことをお世辞と言うが、お世辞を許容する文化もあるが、そういうことは極力言うべきではない、とする文化もある。
嘘をつかず本当のことだけを話してもコミュニケーションは可能ではあるが、まったく嘘をつかない、という制約があると、人間関係はむしろギクシャクする。こうして嘘は人間関係の維持に役立つ面がありはするが、やはり、人に対して悪意のある嘘が頻繁に語られるような状況では、嘘をつかれた人は疑心暗鬼になり、一般的に人間関係は悪化する傾向がある。
嘘をつく動機や技術、事実との関係などによって、嘘は正負、両方の効果を及ぼしうる。
得をしようとして数字をごまかすことを「サバを読む」と言う[9]。
自分の年齢について嘘を言うことは「年齢詐称」と言う。
政治資金収支報告書に嘘の数字を記載することは虚偽記載と言う。
欧米の大人では、聞き手が聞いたとたんに明らかに本当ではないと判ること、つまり明らかな嘘を聞かせて、それが嘘だと互いに十分に知っていることを確認しあって楽しむことがある。一緒に笑うために、ユーモアとして嘘を話すことが多々あるのである。日本の会話では、欧米に比べると、こうした話し方は少ないようである。
嘘の中には規模の大きな集団が組織的に行うものもあり、内容次第では社会に大きな影響を与える。
政府による嘘;「全ての政府は嘘をつく」
アメリカのジャーナリスト、I. F. ストーン(英語版)は、「全ての政府は嘘をつく All Governments Lie」との信念を持ち、特定の報道組織などに属さず、自力で地道な調査を行うことによってベトナム戦争をめぐる嘘などを次々と暴いていった。アメリカ政府は、ベトナム戦争を行っている間ずっと、アメリカ国民に対して嘘を流しつづけて、政府にとって都合の悪い出来事やデータを隠しつづけ、本当の出来事やデータをアメリカ国民に隠すことで、アメリカの世論を操作し、アメリカ国民の判断を狂わせていたのである。また大手マスコミも戦争の間、嘘の情報ばかり流していた。(I.F.ストーンが指摘しているように、嘘をつくのはアメリカ政府だけではなく、全ての政府である。たとえば西側の諸国に属する人々は、ロシア政府が嘘ばかりついていること、ロシア大統領みずからやロシアの報道官が嘘の内容の発言をし、政府系のマスメディアでそれを垂れ流しにしていることをよく知っている。また第二次世界大戦中の日本について研究したことのある人ならば誰でも、日本の軍部や日本政府が大本営発表という嘘満載の発表および報道を行い、日本国民を騙していたことを知っている。)政府というのは、どこの政府であれ、とんでもない嘘つきだ、例外など無い、というのがジャーナリスト I.F.ストーンの確信しているところなのである。 イソップ童話では猿の王様と二人の旅人という話が載っている。こんな話である『ある所に二人の旅人がいた。ひとりは嘘を全くつかない正直者でもうひとりは口を開けば嘘ばかりの嘘つきだった。そんな二人はある日猿ばかりいる猿の国にたどり着く、見慣れぬ者が来たと猿たちはざわつきついに王様が出てきた。そして王様は「私がどんな風に見えるか」と聞いた。嘘つきは「立派な王様でございます」と答え、正直者は「立派なお猿さんですね」と答えた。王様は嘘つきには多くの褒美を与え正直者は処刑してしまったということである。
イソップ童話