虐殺事件の一覧(ぎゃくさつじけん の いちらん)では、一般的に「虐殺(英:massacre)」の語が冠される事件について、一覧の形式で解説してゆく[1]。 現在知られている記録のうち、出来事を表す現代英語としての "massacre" の文献初出
概要
「虐殺」という語は、死者が出ていない劇的な出来事を比喩表現する際にも用いられる(例:ヒロ虐殺(英語版)、土曜日の夜の虐殺)が、以下の表にはそれらの出来事は含まれていない。 日付場所名称死亡者数説明
事件の一覧
000000000061-01-01-000061年Europe North ブリタニア アングルシー島メナイ虐殺
000000000390-01-01-0000390年Europe South マケドニア、テッサロニキテッサロニキの虐殺0,007,0007,000戦車競走の人気御者の逮捕に対する暴力的な抗議中にテッサロニキの市民によりトップレベルの軍司令官が殺害された後、古代ローマ帝国皇帝テオドシウス1世は処刑を命じた[6][7]
000000000627-01-01-0000627年Middle East サウジアラビア・クライザ族の要塞クライザ族虐殺事件[8]0,00600600-900ムハンマドは彼の部下にクライザ族への攻撃を命じた(イスラーム教徒の伝統によれば天使ガブリエルから攻撃を命じられたためだとされている) [9][10][11][12][13][14] ムハンマドが結んでいた部族との条約は裏切られることになった。クライザ族の600?900人のメンバー(陰毛の生えている男性全員で全員が非戦闘員だった)が斬首された一方、部族の女性と子供は奴隷に売られた(タバリー、イブン・イスハーク)[12][13][15] アル=ワーキディーの影響はイブン・イスハークの伝記に現れている。スティルマンとワットはアル=ワーキディーの信憑性を否定している[16]。アル=ワーキディーは頻繁にウラマー(イスラーム法学者)から信頼できない人物として批判されている[17][18]。信頼性のある情報源では仲裁のためにクライザから任命されたSa'd ibn Mu'adhの判断に基づいて戦士全員が殺害されたとしている[19][20][21]。イスラーム教徒2人が殺害された[12]
000000000782-01-01-0000782年Europe North ドイツ・低地ザクセン州フェルデンフェルデンの虐殺0,004,5004,500カール大帝はザクセン戦争でザクセンを征服しキリスト教徒化させる戦役中のザクセンとの戦闘で使者2人、伯を4人及び貴族を20人失ったことへの対応として収監されていたペイガン・ザクセンの反乱勢力4500人を虐殺するよう命じた[22]
000000001002-11-13-00001002年11月13日Europe North イングランドの複数都市聖ブライスの日の虐殺不明0,000,001イングランド王エゼルレッド2世は国内のデーン人全員を殺害するよう命じた。