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虎ノ門事件
港区にある虎ノ門の碑。 事件は碑が設置されている場所の反対側になる虎ノ門公園(現商船三井ビル)で起きた。
場所東京府東京市麹町区虎ノ門(現東京都港区虎ノ門1丁目の外堀通り上)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分14秒 東経139度44分56秒 / 北緯35.67056度 東経139.74889度 / 35.67056; 139.74889座標: 北緯35度40分14秒 東経139度44分56秒 / 北緯35.67056度 東経139.74889度 / 35.67056; 139.74889
標的皇太子裕仁親王
日付1923年(大正12年)12月27日
午前10時45分頃
概要暗殺未遂事件
武器ステッキ式散弾銃
負傷者入江為守 東宮侍従長
犯人難波大助
対処大逆罪(死刑)
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虎ノ門事件(とらのもんじけん)は、1923年(大正12年)12月27日に、東京府東京市麹町区虎ノ門外[1]で、皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が無政府主義者の難波大助から狙撃を受けた暗殺未遂事件[2]。
関東大震災後に頻発したテロ事件の一つで、震災復興を進めていた第2次山本内閣は、引責による総辞職を余儀なくされた。 1923年(大正12年)12月27日、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇、当時22歳)が摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、貴族院へ向かうため御料車(自動車)に乗り、午前10時35分に皇居を発った[2]。 10時40分頃、皇太子の御召自動車は虎ノ門外(虎ノ門公園側)を通過中、芝区琴平町一番地西洋家具商あめりか屋前の群衆の中にいた難波大助が警戒線を突破して接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した[2]。銃弾は皇太子には命中しなかったが、車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長・入江為守(入江相政の父)が軽傷を負った[2]。自動車はそのまま目的地の貴族院に到着[2]。その時点で周囲が初めて入江の出血に気づいた。 なお、皇太子は事件後側近に「空砲だと思った」と平然と語ったとされている。皇太子は貴族院での開院式を終えて赤坂区の東宮御所に戻り、内閣総理大臣山本権兵衛・警視総監湯浅倉平や皇族・武官・見舞客に引見したあと、午後には参殿した秩父宮雍仁親王および高松宮宣仁親王とテニスをおこなった[2]。沼津御用邸滞在中の大正天皇と貞明皇后には、東宮大夫珍田捨巳が派遣された[2]。 一方、難波は「革命万歳」と叫んで自動車の後を追ったが、少し走ったところで、警察官や憲兵や群衆に囲まれてしまい、人々は難波を殴るやら蹴るやら踏むなど袋叩きにした[3]。犯人を逮捕したのは憲兵隊の者だった[4]。それから難波は麻縄で手足を縛られて警察の自動車に押し込められ、警視庁へ連行された。車内でも両脇の警察官から散々殴られ首を絞められたり、髪を引っ張られた[3]。 難波は逮捕された後、大逆罪で起訴され1924年(大正13年)11月13日に死刑判決を受けた[5]。11月14日、皇太子と皇太子妃〔後の香淳皇后〕は裁判判決文を受け取る[5]。11月15日、難波は死刑を執行された。 この事件の背景には、関東大震災後の社会不安や大杉事件・亀戸事件・王希天事件などの労働運動弾圧に対する社会主義者達の反発、不満があった[要出典]が、なぜそれが皇太子銃撃になったのかは不明のままである。 事件当日夕刻、当時の内閣総理大臣・山本権兵衛、内務大臣の後藤新平、司法大臣の平沼騏一郎以下全閣僚は、皇太子(摂政宮)に辞表を提出した[6]。12月28日、皇太子は山本辞表提出に関し松方正義公爵・西園寺公望公爵から意見を聴くため、入江為守を派遣する[7]。12月29日、皇太子は山本を慰留したが、山本の決意は変わらず改めて内閣閣僚全員の辞表を提出した[8]。1月7日に内閣総辞職は認められた(後任の内閣総理大臣は清浦奎吾)[9]。
概要
影響山口県の難波大助の生家