蘭溪道隆
嘉定6年 - 弘安元年7月24日
(1213年 - 1278年8月13日)
頂相「蘭渓道隆像」
諡号大覚禅師
生地?州?陵県蘭渓邑
没地鎌倉建長寺
宗派臨済宗大覚派
寺院円覚寺、泉涌寺来迎院、寿福寺、建長寺、修禅寺、禅興寺、東光寺
師無準師範、北?居簡、無明慧性
弟子南浦紹明
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蘭溪道隆(らんけい どうりゅう、嘉定6年(1213年) - 弘安元年7月24日(1278年8月13日))は、鎌倉時代中期の南宋から渡来した禅僧。諡は大覚禅師。俗姓は冉、名は?章。法諱は道隆。号は蘭渓。?州?陵県蘭渓邑(現在の重慶市?陵区藺市鎮)の出身。大覚派の祖。無明慧性の法嗣、建長寺の開山。 建長寺境内(国の史跡)目次
1 人物・略歴
2 頂相
3 墨跡
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 参考文献
6 関連項目
人物・略歴の法を嗣ぐ。
1246年(寛元4年)33歳のとき、渡宋した泉涌寺の僧月翁智鏡
との縁により、弟子とともに来日した。筑前円覚寺・京都泉涌寺の来迎院・鎌倉寿福寺などに寓居。宋風の本格的な臨済宗を広める。また執権北条時頼の帰依を受けて鎌倉に招かれ、退耕行勇の開いた常楽寺(神奈川県鎌倉市)の住持となった[1]。1253年(建長5年)、北条時頼によって鎌倉に建長寺が創建されると招かれて開山となる。建長寺は、純粋禅の道場としては栄西の開いた筑前国の聖福寺(福岡市博多区)に次いで古い。創建当初の建長寺は、中国語が飛びかう異国的な空間であった[1]。当時の建長寺の住持はほとんどが中国人であり、無学祖元はじめ、おもだった渡来僧はまず建長寺に入って住持となるのが慣例となっていた[2]。『沙石集』を著した無住は、『雑談集』のなかで、建長寺はまるで異国のようであるとの感想を記している[注釈 1]。
蒙古襲来(元寇)の際、元からの密偵の疑いをかけられ、甲州や奥州の松島、伊豆国に移された。その時修禅寺の改宗を行う。
のち京都建仁寺・寿福寺・鎌倉禅興寺などの住持となった。一時、讒言により甲斐国(現:山梨県)に配流され、東光寺などを再興したが、再び建長寺にもどり、1278年(弘安元年)同寺で没した。