蘭奢待/蘭麝待(らんじゃたい)は、正倉院に収蔵されている香木。天下第一の名香と謳われる。
正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は、その文字の中に"東・大・寺"の名を隠した雅称である。
その香は「古めきしずか」と言われる。全浅香(紅沈香)と並び、権力者にとって重宝された。宝物番号は中倉135[1]。 長さ156.0cm、最大径42.5cm、重量11,600g(11.6kg)で[1]、不整形な木材。内部はほぼ空洞となっている[2]。空洞になっている部分について、幾多の成書に「朽ちてうつろになった」と記されるが[3]、数度の調査を行った薬史学者の米田該典は「燃焼時に予期せぬ香りを発しないように余分な部分を切除することは、現在も普通に行われていることで、香気成分が沈着しない部分を積極的に切除したため」としている[2]。昭和30年(1955年)の『正倉院薬物』には「外側の樹脂分の多い部分は削り取られてしまって、樹脂分のほとんどない木部だけが残っているように考えられる」と記している[4]。 米田該典は、ジンチョウゲ科ジンコウジュ属(Aquilaria
概要
蘭奢待が正倉院に納められた経緯については諸説あるが特定できていない。
名称蘭奢待に込められた東大寺
蘭奢待という通称の由来について室町時代後期の公家三条西実隆の日記『実隆公記』には、東大寺別当の公恵が手元にあった蘭奢待を後土御門天皇に献上した際の逸話として「この沈香は聖武天皇のもので東大寺と申すべきだが、焚き物であるため縁起が悪いので、東大寺という文字を込めて蘭奢待と称する」と記している。この通称をつけた人物について堀池春峰は足利義政としたが、本間洋子による『実隆公記』の検討によりこの説は否定されており、命名者は不明である[6]。
「蘭奢待」の初見について、本間は貞治6年(1367年)の『新札往来』に記される名香のリストが最も早いと指摘している。また「黄熟香」の初見は建久4年(1193年)の『東大寺勅封蔵開検目録』とされるが、記される寸法から当該の香木は全浅香[注釈 1]とする説もある[8]。 蘭奢待の伝来について記される史料はない。和田軍一は羂索院の双倉に収蔵されていた宝物が倉の老朽化に伴い永久4年(1116年)に勅封倉(正倉院)に移された記録を根拠として、この時に蘭奢待が正倉院に納められたとする。また堀池春峰は延暦24年(805年)に早良親王の御霊鎮護において用いられた名香を蘭奢待と推定したうえで、同年7月に唐から帰朝した藤原葛野麻呂が舶載したものとする。ただしいずれの説も推測の範疇を出ない[8]。 米田該典は平成9年(1997年)の調査で38箇所の截香跡があるとした上で、繰り返し切り取られた跡もみられることから50回くらい切り取られたとしている[9]。これまで足利義満、足利義教、足利義政、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}土岐頼武[要出典]、織田信長、明治天皇らが切り取っている。現在、3箇所の切り口に「足利義政拝賜之處」「織田信長拝賜之處」「明治十年依勅切之」の付箋がつけられているが、いずれも明治期のものであり明治以前の切り口については不明である[9]。徳川家康も切り取ったという説があったが[10]、慶長7年(1602年)6月10日、東大寺に奉行の本多正純と大久保長安を派遣して正倉院宝庫の調査を実施し[11]、蘭奢待の現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった(『当代記』同日条)。同8年2月25日、宝庫は開封して修理が行われている(続々群書類従所収『慶長十九年薬師院実祐記』)[11]。 『満済准后日記』によれば、永享元年(1429年)9月24日に足利義教は東大寺を訪れて受戒を受け、その後に同寺西室で宝物を見たうえで碁石3個と共に「沈(黄熟香)二(二寸ばかり)切、同じく之を召される」と記す。さらに続けて「至徳の時も此の如くか。
歴史と截香
足利義満と義教の截香