蘇軾
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蘇軾

各種表記
繁体字:蘇軾
簡体字:??
?音:S? Shi
ラテン字:Su1 Shih4
和名表記:そ しょく
発音転記:スー シー
英語名:Su Shi
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蘇軾(『晩笑堂竹荘画伝』)『赤壁の月』(月岡芳年『月百姿』)赤壁に遊ぶ蘇軾黄州寒食詩巻』(部分)蘇軾筆

蘇 軾(そ しょく、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: S? Shi、景祐3年12月19日1036年1月8日〉- 建中靖国元年7月28日1101年8月24日[1])は、中国北宋政治家文豪書家画家。政治家としての活躍の他、宋代随一の文豪として多分野で業績を残した。文学以外では、書家、画家として優れ、音楽にも通じた。

号は東坡居士(とうばこじ)、は子瞻(しせん)、は文忠公。号から、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれ、坡公や坡仙などの名で敬慕された。

蘇洵の長男で、弟は蘇轍であり、この三名に韓愈柳宗元欧陽脩曽鞏王安石を加えた八人を「古文」の唐宋八大家という[2]。子に蘇邁・蘇?・蘇過・蘇遯ら。曾孫は蘇公弼(威州刺史)、玄孫娘に耶律楚材の夫人(蘇公弼の娘で、耶律鋳の生母)がいる。
生涯

眉州眉山県(現在の四川省眉山市東坡区)の出身[3]。8歳で道士張士簡の塾に入り勉学に励み、13歳で弟の蘇轍と共に劉巨という人の門徒となり作詩を学んだ[4]。また20歳までの間に経史に博通しており、賈誼や陸贄の書を好んでは、『荘子』を読んで甚く感銘を受けたとされている[5][注釈 1]

嘉祐2年(1057年)22歳のときに弟の蘇轍とともに進士となる[3]。このときの科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、時流にとらわれない達意の文章のみ合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾・蘇轍・曽鞏の3名のみ合格した[2]。合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入る。この時期に親子三人で唱和し作成した「南行集」は、杜甫梅堯臣の詩を学び五言古詩が多く収録されている。しかし現存しておらず、50巻の詩集(合註本)の巻一に収める42首が面影を残しているのみである[6]治平3年(1066年)に父の蘇洵が亡くなってからは、政界から一度離れ故郷に帰って喪に服す。再び政界に復帰したのは煕寧2年(1069年)、蘇軾34歳であった[7]

次代の神宗の時代になると、唐末五代の混乱後の国政の立て直しの必要性が切実になってきた[8]。その改革の旗手が王安石であり、改革のために「新法」と呼ばれる様々な施策が練られた[8]。具体的には『周礼』に説かれる一国万民の政治理念すなわち万民を斉しく天子の公民とする斉民思想に基づき、均輸法・市易法・募役法・農田水利法などの経済政策や、科挙改革や学校制度整備などの教育政策が行われた[8]。蘇軾は、欧陽脩・司馬光らとともにこれに反対したため[9]、2度にわたり流罪を被り辺鄙な土地へ名ばかりの官名を与えられて追放された[3]

最初の追放は元豊2年(1079年)蘇軾44歳で湖州知州の時代である[3]。国政誹謗の罪を着せられて逮捕され、厳しい取り調べを受ける事になる。この時、御史台の取り調べの際に蘇軾が残した供述書は、後に「烏台詩案」と呼ばれ、問題とされた蘇軾の作品への彼自身の解釈が述べられている。この「烏台詩案」を書き残した時は死を覚悟していたが、神宗の特別の取り計らいで黄州へ左遷となった[3]

左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。黄州での生活は足かけ5年にも及び、経済的にも自ら鋤を執って荒地を開墾するほどの苦難の生活だったが、このため彼の文学は一段と大きく成長した[3]。流罪という挫折経験を、感傷的に詠ずるのではなく、彼個人の不幸をより高度の次元から見直すことによって、たくましく乗り越えようと努めた[3]。平生の深い沈思の結果が、彼に現実を超越した聡明な人生哲学をもたらした[3]。この黄州時代の最大の傑作が『赤壁賦』である。赤壁は、三国時代の有名な古戦場であり、西暦208年と蜀の連合軍が、圧倒的な数を誇るの水軍を破ったことで知られる[3]。ただし合戦のあった赤壁は、黄州から長江を遡った南岸の嘉魚県の西にあり、蘇軾が読んだ赤壁は実際の古戦場ではない。史跡を蘇軾が取り違えたのではなく、古くからそこを合戦の場だとする民間伝承があったと思われる[3]

元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位すると、幼い哲宗に代わって宣仁太后高氏の垂簾朝政が8年間続く。彼女の後押しも有って旧法党の官僚は要職に就き、元豊9年(1086年)に司馬光は宰相となる。蘇軾も同時期に名誉を回復され50歳で中央の官界に復帰し、中書舎人・翰林学士などを経て、礼部尚書まで昇進した[10]。新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬光に対して、新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争し、次第に旧法派の内部の分裂が見られるようになる。

司馬光の死後は対立が先鋭化し、蘇軾・蘇轍兄弟を中心にした蜀党(四川派)と、程頤兄弟の洛党(洛陽派)、朔党(北方派)の三つの派閥が党争を起こす事になる。蘇軾は保守派に対し公平な批判的意見を述べたことにより、攻撃の的とされ、地方と朝廷を転々として逃れていた。宣仁太后高氏の寵愛があっても確固たる地位につかなかったのはこのことが原因であった[11]

紹聖元年(1094年)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷され(この時59歳)、恵州に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された[10]。二度目の追放である。黄州時よりもより高い役職に就いていたために、左遷時の罰も重かった。それでも飽き足りなかった朝廷側は、場所をさらに恵州から昌化軍(現在の海南島西部)に移した。熱帯環境の海南島は先住民族の黎族の居住地であり、漢民族に沿って異郷ともいえる環境で侘しい生活を送る[12]

66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即位するにおよび、新旧両党の融和が図られると、ようやく許された。提挙玉局観という名誉職を授けられたが、都に向かう途中病を得て、常州で死去した。しかし、この苛酷な運命にあっても、彼の楽天性は強靭さを失わず、中国文学史に屹立する天性のユーモリストであった[10]

蘇軾の伝記は、蘇軾の死後まもなく弟の蘇轍が書いた長文の墓誌銘「亡兄子瞻端明墓誌銘」が最も確実な資料である。『宋史』巻338の列伝は、ほぼこの墓誌銘に基づく[4]
詩人として

蘇軾は北宋代最高の詩人とされ、その詩は『蘇東坡全集』や注釈が充実している『蘇軾全集校注』に纏められている。
通釈は主に『蘇東坡 漢詩大系 第17巻』(近藤光男訳、集英社、初版1964年)による。

題西林壁(西林の壁に題す)
原文書き下し文通釈
横看成嶺側成峰横より見れば嶺を成し、傍らよりは峰となる正面から眺めると尾根続きの嶺みね、側面へ回って眺めると切り断った峰となる
遠近高低各不同遠近・高低いつも同じきは無し廬山は眺める位置の遠近高低によってそれぞれ違った姿に見える
不識廬山真面目廬山の真面目を知らざるは廬山そのものの誠の姿はどうなのか、さっぱりわからないのは


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