蘇我馬子
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 凡例蘇我 馬子
蘇我馬子像
斑鳩寺蔵『聖徳太子勝鬘経講讃図』より)
時代飛鳥時代
生誕不詳[1]551年?)[2]
死没推古天皇34年5月20日626年6月19日
別名嶋大臣
墓所桃原墓(石舞台古墳か)
官位大臣
主君敏達天皇用明天皇崇峻天皇推古天皇
氏族蘇我氏
父母父:蘇我稲目
兄弟堅塩媛、馬子、小姉君石寸名
境部摩理勢、小祚臣
物部氏
河上娘善徳蝦夷刀自古郎女
法提郎女、倉麻呂
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蘇我氏略系図( 各人物記事へのリンク表示)

蘇我 馬子(そが の うまこ[注釈 1]欽明天皇12年?〈551年[2] - 推古天皇34年5月20日626年6月19日〉)は、飛鳥時代政治家貴族。邸宅にを浮かべたがあったことから嶋大臣とも呼ばれた。

敏達朝大臣に就き、 以降、用明天皇崇峻天皇推古天皇の4代に仕えて、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。
生涯

以下は『日本書紀』『古事記』の記述によるものである。

敏達天皇元年(572年)の敏達天皇の即位時に大臣となる。

敏達天皇13年(584年百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国(一説によると赤穂郡矢野庄)で高句麗の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。

敏達天皇14年2月(585年)、馬子は病になり、卜者に占わせたところ「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。ところがこの頃、疫病がはやり多くの死者を出した。3月、排仏派の物部守屋中臣勝海が「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋はに向かい、仏殿を破壊し、仏像を難波の堀江に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を差し出すよう命じた。馬子は尼僧を差し出し、守屋は全裸にして縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病気になった。人々は「仏像を焼いた罪である」と言った。

同年6月、馬子は病気が治らず、奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子に対してのみ許可し、三人の尼僧を返した。馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。

同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒した。

守屋「(長い刀を差して弔辞を読む小柄な馬子へ)まるで矢に射られた雀のようだ」

馬子「(緊張で体を震わせながら弔辞を読む守屋へ)鈴を付けたらさぞ面白かろう」

橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位し、用明天皇となる。用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位に就きたがっており、不満を抱いた。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝・敏達天皇の寵臣三輪逆を殺害させた。

用明天皇2年4月(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に豊国をつれて来させた。守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。

程なく用明天皇が崩御した。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。馬子軍は河内国渋川郡の守屋の居所を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子軍を三度撃退した。厩戸皇子(聖徳太子)四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。馬子軍は奮起して攻勢をかけ、迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。

同年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。炊屋姫は皇太后となった。

崇峻天皇元年(588年)馬子は善信尼らを百済へ留学させた。

588年飛鳥寺が建立された。このとき、福岡には既に千如寺があったとされ、仏教は全く馴染まれていないものではなかった。

589年に、崇峻天皇は東山道東海道北陸道に使者を派遣して、蝦夷国境、海浜国境、越国境を観させた。中国ではが中国を統一したため、難民が発生していた可能性がある。

崇峻天皇4年(591年)崇峻天皇は群臣と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った。

崇峻は、欽明や敏達、用明のように、磯城嶋や磐余といった倭王権成立以来の伝統的な地ではなく、倉梯という山間部に宮を造営し、蘇我氏やマヘツキミ層と距離を取った。そして、崇峻と蘇我馬子・蘇我氏やマヘツキミ層は、いくつかの問題で分裂を招いてしまった[3]

1つ目の齟齬は、崇峻が大伴糠手の娘・大伴小手子との間に蜂子皇子をもうけたことである。後日談の中で、「蘇我嬪・河上娘」の名が見えるが、彼女が后妃記事に見えないのは、崇峻の皇子女を産んでいないか、正式な妃でなかったか、実在の人物でなかったという可能性がある。いずれにせよ、崇峻の主要な后妃が大伴小手子であったのは確かである。大王家とのミウチ的結合を第一の権力の基盤としていた蘇我氏にとって、崇峻が大伴氏の娘と結婚したことは危機であった。蜂子皇子が皇位を継承すれば、蘇我氏は外戚の地位を確保できなくなり、大王家の嫡流が崇峻系に移ってしまう可能性があった[3]

2つ目の齟齬は、588年飛鳥寺が建立されたことである。物部守屋が亡くなったとはいえ、いまだ仏教が全面的に受容されているとは言い難いこの時期の本格的な大伽藍寺院の建立には、賛同しない勢力も当然ながら存在したはずであり、その1人が崇峻であった可能性がある。『日本書紀』には、崇峻と仏教との関わりを示す記事は存在しない[3]

3つ目の齟齬は、589年に崇峻が東山道東海道北陸道に使者を派遣して、蝦夷国境、海浜国境、越国境を観させたという政策である。


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