蘇我入鹿
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 凡例蘇我 入鹿
月岡芳年筆『大日本名将鑑』「中臣鎌足 大兄皇子 入鹿大臣」。中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を討つ場面を描く。
時代飛鳥時代
生誕不詳
死没皇極天皇4年6月12日645年7月10日
別名林大臣、鞍作大郎
墓所奈良県高市郡明日香村飛鳥寺
官位大臣
主君皇極天皇
氏族蘇我氏
父母父:蘇我蝦夷
兄弟入鹿、物部大臣、手杯娘(舒明天皇妻)?[注釈 1]
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蘇我 入鹿(そが の いるか)は、飛鳥時代豪族蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の最上位有力者であったが、乙巳の変において討たれる。
生涯蘇我氏略系図乙巳の変
江戸時代住吉如慶具慶の合作によって描かれたもの。左上は皇極天皇。 談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(奈良県桜井市蘇我入鹿首塚と甘樫丘

以下は主に『日本書紀』などの記述による。日付は旧暦。

青少年期は僧・に学問堂で学び、「吾が堂に入る者に宗我大郎(蘇我入鹿のこと)に如くはなし」と言われる程の秀才だったと言われる。

蝦夷が大臣であった皇極天皇元年(642年)、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。同年7月23日には従者が白色のの雛を手に入れた。雀は祖父の蘇我馬子を表された事があるとされている。

皇極2年(643年)には、蝦夷が非公式に「紫冠」を入鹿に授け、大臣(オホマヘツキミ)としたとされ、蘇我氏の「専横」の一例とされるが、近年の研究によれば、蘇我氏内部の氏上の継承はあくまで氏族内部の問題であり、冠位十二階から独立した存在である「紫冠」は、蘇我氏内部で継承したとしても何ら問題はなかったとされる[3]

皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、入鹿は巨勢徳多土師猪手大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させた。山背大兄王が皇位継承を望まれなかったのは、山背大兄王が用明天皇の2世王に過ぎず、既に天皇位から離れて久しい王統であったからであり、加えて、このような王族が、斑鳩と言う交通の要衝に多数盤踞して、独自の政治力と巨大な経済力を擁しているというのは、天皇や蘇我氏といった支配者層全体にとっても望ましいことではなかったからである[3]。山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘、菟田諸石、伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した。家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と述べた。山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。

結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる[注釈 2]。蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒したという。

当時の皇位継承は単純な世襲制度ではなく、皇族から天皇に相応しい人物が選ばれていた。その基準は人格のほか年齢、代々の天皇や諸侯との血縁関係であった。これは天皇家の権力が絶対ではなく、あくまでも諸豪族を束ねる長(おさ)という立場であったためである。また、推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があったとも言われている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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