蘇峻の乱
戦争:五胡十六国時代
年月日:咸和2年11月 - 咸和4年2月22日[1](327年12月 - 329年4月7日)
場所:建康(揚州・江南)
結果:東晋軍の勝利
交戦勢力
東晋軍蘇峻軍
指導者・指揮官
陶侃、?亮、温?、?鑒、王舒、卞壼、郭黙、毛宝蘇峻、祖約、蘇逸
蘇峻の乱(そしゅんのらん)は、中国の東晋初期の327年から329年にかけて歴陽内史蘇峻が起こした反乱。 王敦の乱鎮圧に功を挙げた蘇峻は戦後に使持節・冠軍将軍・歴陽内史・散騎常侍・邵陵公を与えられるなど長江北部において精兵数万を擁する大軍閥となったが、一方で次第に増長し罪人や亡命者を朝廷の許可なく独断で匿うなどの行動を取るようになる。中央では太寧3年(325年)に明帝が崩御し、太子司馬衍が成帝として即位したがわずか4歳の幼児であり、成帝の生母?文君が垂簾聴政を行うこととなり、外戚である?一門の権勢が大きく高まった。 政権を掌握した?一族の長兄中書令?亮の権勢は宰相王導をも凌いだが、寛容で政治的平衡感覚に優れていた王導に比べて、?亮は厳格な法治主義を以て強権的に改革を推し進め、様々な軋轢を生じ始める。明帝死亡時の遺詔の昇格人事から荊州刺史陶侃と豫州刺史祖約の名前が無かった際には二人から?亮の仕業と恨みを買った。また、咸和元年(326年)11月には後趙の石聡の侵攻に対して祖約は救援の要請を再三朝廷にしたが、朝廷はこれに応じず結局の所は蘇峻が独自に韓晃を救援に寄越してこれを退けたものの、戦後に朝廷は首都建康の北の備えに涂塘の修繕を議題に挙げ、これに祖約は見放されたものと朝廷への不信感を一気に募らせた。 加えて?亮は蘇峻の存在を危険視して備えとして温?を都督江州諸軍事、江州刺史として武昌に鎮させ、緊張が高まった。 咸和2年(327年)、?亮はついに蘇峻の軍権を剥奪するべく、軍権の無い職を与えて朝廷に召喚しようと画策する。これに王導は「蘇峻は猜疑心が強いので危険である」と忠告し、また卞壼も「蘇峻は強兵であるのでもし叛逆されれば勝てない」と反対し、親しい温?ですらも「国家に大事を招く」と自重を求めたが、?亮はこれら全てを無視して、郭黙を後将軍、領屯騎校尉、?冰を呉国内史に任命して更に備えた上で蘇峻の大司農任命を強行し、軍権を蘇逸 この命を受けた蘇峻は朝廷が己を召喚して害しようとしていると疑ってこれを固辞しようとしたが、朝廷はこれを認めず重ねて蘇峻を呼んだ。この時、蘇峻は観念して参上しようと行装を固めたものの決意が付かずにいたが、参軍の任譲の讒言によって自衛の為に先に挙兵する事を決意する。朝廷は使者を送って更に蘇峻の参内を求めたが、ここで蘇峻は「この謀をした者に死を以て報いさせる」と叛意を露わにした。 挙兵を決めた蘇峻は祖約に遣いを送って?亮討伐の兵を共に起こそうと誘うと、日頃より?亮に恨みを抱いていた祖約は喜々として参軍を約束してこの企てに協力した。一方で蘇峻の叛意を知った朝廷は卞壼を尚書令・領右衛将軍、王舒を揚州刺史、虞潭を都督三呉等郡諸軍事に任命して北方の蘇峻を警戒した。 咸和2年(327年)10月に蘇峻は挙兵し、この際に阜陵県令匡術
背景
蘇峻の乱
蘇峻起兵
東晋軍の抗戦