藩札
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出典検索?: "藩札" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2013年2月)
備後福山藩が享保15年に発行した藩札。額面は銀1匁、発行元の「濱口屋」の名称も見える。

藩札(はんさつ)は、江戸時代に各が独自に領内に発行した紙幣である。以下では、狭義の「各藩が発行した藩札(大名札)」を中心に述べるが、実際上は、旗本が発行した旗本札寺社が発行した寺社札、宮家が発行した宮家札、地域で発行した町村札、私人が発行した私人札なども、広義の藩札として取り扱われることも多い。
概要

最初の藩札は、通説では越前福井藩松平家寛文元年(1661年)に発行した銀札[1]であると言われているが、文献上では寛永7年(1630年)に発行された備後福山藩の銀札が最初である。もっともそれ以前に伊勢大和では私札の発行が見られ、現存する日本最古の紙幣ともいわれる山田羽書1610年)もこれに属する。寛永11年(1634年)には自治都市であった今井町において、幕府から許されて藩札と同じ価値のある独自の紙幣として発行された銀札「今井札」が74年を通じて広く近郷でも用いられたが、兌換の円滑さから国中でも信用性が高かった。その後、特に銀遣い経済地域である西国の諸大名を中心として、多くの藩が藩札を発行した。[2]

藩札発行の目的は、自領内の貨幣不足を補い、通貨量の調整機能を担わせることであった。それには十分な正貨準備が不可欠であったが、実際には、藩札発行で得られる実通貨の納庫を目論み、これによって藩の財政難の解消を試みる場合がしばしばあった。藩札の流通は、藩が独自の流通規則を定め、藩札以外の貨幣の流通を禁じた藩もあったが、藩札と幕府貨幣の両方の流通を認めた藩も多かった。

なお藩札は、藩を改易された際には紙くずと成るリスクを有し、また藩の財政状況が悪化しただけで信用力の低下につながる。そのため藩札の運用が行き詰まった場合には、藩札の兌換を巡る取り付け騒ぎ一揆打ちこわしも発生した。表向きには金銀などの兌換保証を前提としていた藩札だったが、実際にそれだけの正貨を用意できた藩は少なかった。

藩札普及初期には、藩が自ら藩札会所などを設けて藩札の発行をしていたが、やがて領地内外の富裕な商人が藩札の札元となり発行を行い、その商人の信用によって藩札が流通した側面もあった。ただし、実際の版型を彫る技術者を各藩内で得るのは困難なため、大坂を中心とする京阪地方で各藩の注文を受け、銅版の場合は藩の注文に応じてその地に出張して製版に当たった。印刷は各藩内で藩の者によって刷られ、銅版の場合は製造技術者が共に行った。

畿内近国においては、幕府領、諸藩領、旗本領などがモザイク状に入り組んでいたために、他領地との取引が諸領の経済活動に占める割合が非常に大きく、また江戸時代後期以降は幕府の意図的な銀単位通貨流通量抑制政策のために手形や藩札による取引も盛んであったため、発行元である藩の思惑に反して藩領を超えた比較的広い範囲にまで藩札が流通していた場合も少なくない。

また近隣の藩で藩札が発行された場合、領内の良貨(幕府貨幣)が悪貨(近隣の藩が発行した信用の裏付けの弱い紙幣)に取って代わられる、言い換えれば良貨を近隣他領に吸い上げられることは自領の経済活動に悪影響が及ぶため、それを防ぐための自衛策として、小藩や旗本領、関東諸藩の飛び地領などでも独自の紙幣を発行せざるを得なくなる場合も少なくなかった。[要出典]

包金銀と同様に、藩札にも所定の枚数の藩札を包んだ「藩札包」が存在し、包金銀とほぼ同様の機能を持っていた。
藩札の種類

藩札は、和紙木版刷りが基本であったが、手書き墨書の札も少なくない。仙台藩により天明4年(1784年)に発行された仙台通宝のように硬貨形式のものも広義の藩札に含める場合がある。銅版による藩札は、寛政年間に司馬江漢足守藩で銅鐫したのが始まりで、幕末にはほぼ玄々堂が独占した。銅版で作る利点は、入手困難な腐食薬品を用いて制作される銅版のほうが、技術的に偽札防止に効果があったためである。

藩札用紙は流通上の利便性のため、耐用年数を上げるために小型で丈夫な厚手の和紙であるケースが多い。すかしや着色紙、隠し文字などの偽造防止などを取り入れたものもあった。各藩は偽造防止のために藩札用紙の確保には神経を使った。摂津国有馬郡名塩村(現・兵庫県西宮市)で作られた和紙(名塩雁皮紙)は、雁皮に特殊な土を漉き込むことによって虫食いの害を防ぐことができるため、全国的に普及した。

藩札は兌換保証の紙幣であり、藩札の交換対象となる物とその量が藩札に明示されていた。一般には、札使いは銀遣い経済地域である西日本において特に盛んであり、との兌換の銀札が最も多かった。同じく貨幣との兌換の藩札としては、金札、銭札があった。銀札では、額面に(もんめ)を用いることが多いが、より少額な額面を示す(ふん。匁の1/10)を用いることもある。

藩札には貨幣ではなく物品との兌換を明示した預り手形(現在の商品券に相当)形式のものもあり、この種のものでは米札が多い。特殊な例として、傘札、轆轤札、糸札、するめ札や昆布札などもあった。また、振り手形(現在の小切手に相当)の形式で、発行藩及び取引先両替商の信用の元で不特定多数に流通できるよう藩札用の小型で厚手の和紙で作製したものもあった。

藩領内の特産品の専売制を推進するため、これら専売品の買上げに藩札を使用した例もある。家臣の倹約を目的として、藩士間の贈答用に用いることを義務付けられた、本来の贈答品の購入費用からすれば比較的低額の兌換紙幣(音物札)を発行した藩もあった。

明治初年に政府は銀通貨の通用を停止したため、それ以降、新貨幣制度が開始され藩札の発行が禁止される明治4年までに発行された藩札は、金単位あるいは銭単位の額面である。銀単位の藩札を大量に発行していた西日本諸藩及び東日本諸藩の西日本の飛地領では、それらの旧札の額面部分に金単位または銭単位の加印を施して再発行させた例も多い。

なお、広義の藩札を調査するときには、平成4年3月に史料館所蔵史料目録第57集として発行された「日本実業史博物館旧蔵古紙幣目録」が、全時代に亙る藩札を網羅し、また、藩札に印刷・押印された字句を詳細に記録しており、検索並びに同定のための資料として大変有益である。
幕府の対応
藩札の禁止

幕府による藩札への対応は二転三転している。宝永2年(1705年)に藩札の調査が行われ、それを受けて幕府発行の貨幣の流通が滞るとして宝永4年(1707年)、すべての藩札の使用が禁止された(宝永の札遣い停止令)。実際には、幕府の行っていた貨幣改鋳の妨げになるとの思惑であった。
禁止の解除

享保15年(1730年)に領国の石高が20万石以上であれば通用期間25年、20万石以下であれば通用期間15年などの条件付きで藩札の発行が再解禁された。この背景には、享保の改革で下落した米の価格があり、諸藩の財政を救済する目的であったといわれている。しかし宝暦9年(1759年)には新規の藩札発行が禁止され、その後、銀札以外の藩札の流通に制限が加えられた。このような幕府の藩札の取り締まりにもかかわらず、財政難に苦しむ諸藩は幕府に無断で発行を続けた。

幕末並びに明治初期においては、混乱する経済情勢を背景に、幕府による統率の不徹底や、明治政府の権限未確立もあり、多種多様な、狭義の藩札、並びに広義の藩札が発行された。広義の藩札で見ると、現存するものの大半は、文化文政期以降の発行によるもので占められることには注意を要する。

幕府自体は、貨幣流通にこだわり続けたが、幕末の慶応3年(1867年)に江戸横浜通用札、江戸および関八州通用札、兵庫開港札の三種類の金札紙幣を発行した。
明治政府の対応

明治4年(1871年)に明治政府が藩札の発行状況を調べたところ、全国の藩の約8割に当たる244藩、14の代官所、9の旗本領が紙幣の発行を行っていた。江戸後期頃までは西日本を中心とした銀遣い経済下の諸藩の発行が中心であったが、幕末の混乱によって幕府の強力な統制が減退・消滅し、諸藩は混乱に伴う財政危機を紙幣発行により賄おうとした結果、関東諸藩を中心に新規に発行する藩が続出したためである。明治政府は同年の廃藩置県の機に藩札回収令を発布し、各藩札を新貨幣単位()により価額査定し、実交換相場による藩札回収を始めた。藩札は1872年明治5年)4月に発行された新紙幣の明治通宝と交換する形で回収されていった[3]。ただし、藩札は小札が多かったのに対し、新紙幣は十銭札が最少だったため、5銭以上に相当する藩札だけが新紙幣と交換され、5銭未満の小札は新貨発行まで引き換えが見合わされた[3]


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