藤蔭静樹
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ふじかげ せいじゅ
藤蔭 静樹
思凡(1921年)
生誕1880年明治13年)10月13日
新潟市新潟市古町
死没1966年昭和41年)1月2日
職業舞踊家
流派藤間流(-1931年)
藤蔭流(1931年-)
受賞紫綬褒章
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藤蔭 静樹(ふじかげ せいじゅ、1880年明治13年)10月13日 - 1966年昭和41年)1月2日)は、日本舞踊家。藤蔭流(ふじかげりゅう)を創始し、新舞踊を開拓した。前名に藤蔭静枝、藤間静枝、新巴屋八重次(しんともえや やえじ)、内田静江(うちだ しずえ)など。本名は内田 八重(うちだ やい)。一時期永井荷風の妻だった。
生涯

寅吉・ゆきの次女として新潟市古町に生まれた。入婿の父は、義父の寿司屋を継いでいた。義父(八重の祖父)は、越後高田藩榊原家の家臣だった。5歳ごろから町内の妓楼庄内屋に居着いて踊りや三味線に親しみ、9歳から市川登根に踊りを習い寺子屋で読み書きを学び、13歳で舞妓となった。
上京

1898年(明治31年)(19歳)のとき上京し、翌年市川九女八の弟子となり、師匠の知人の依田学海から内田静江の芸名を貰い、また佐佐木信綱の竹柏園で短歌を学んだ。1903年川上音二郎一座の興行に、九女八に従って明治座の舞台を踏んだが、日舞への転進を勧められて二代目藤間勘右衛門に入門した。29歳の1909年、藤間静枝の名を許され、生活のため新橋宗十郎町(現中央区銀座7丁目)に新巴家の看板を出し、芸妓・八重次となった。文学芸者と呼ばれた。

1910年(明治43年)(30歳)、慶應義塾大学文学部教授永井荷風と馴れ初め、交情を深めて後1914年大正3年)結婚したが、荷風の浮気に怒って一年足らずで飛び出し、八重次に戻った。

荷風とは離婚後間もなくして半年ほど縒りを戻し、その後も会うことがあったものの、1937年以後は全く切れた。「荷風と別れて馬鹿した」などと生涯惚気を口にした。
藤蔭会の設立

1917年、勘右衛門の諒解を得て同門の2人と勉強会「藤蔭会」を催し、回を重ねて藤間静枝の藤蔭会となり[1]、舞踊に専念するため、1919年芸妓を廃業した。次第に新演出を増やし、1921年の新作『思凡』の客席には、六代目尾上梅幸七代目松本幸四郎六代目尾上菊五郎七代目坂東三津五郎二代目市川猿之助、などの歌舞伎俳優も集まった。

藤蔭会には、和田英作田中良北原白秋本居長世山田耕筰中山晋平、町田嘉章、吉田清風、宮城道雄佐藤千夜子勝本清一郎岡田嘉子初代水谷八重子らが協力した。1924年の『蛇身厭離』、翌年の『訶梨帝母』は勝本清一郎の野心作とされた。静枝は勝本が山田順子と相愛になるまで関係があった。

静枝の男性遍歴は、『断腸亭日乗1940年12月1日条に荷風が書いている。

1928年(昭和3年)(48歳)、単身シベリア鉄道経由でパリへ行き、居合わせた吉屋信子の世話になり、ロンドンへも連れ立った。明けた1929年、パリ在留の画家らの企画により、シャンゼリゼ通りにあったテアトル・フェミナ(Theatre Femina)で一度公演し、帰国した。

1930年から麻布霞町(現、港区西麻布1丁目)に長く住んだ。


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