藤田浩雅
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藤田 浩雅基本情報
国籍
日本
出身地静岡県裾野市
生年月日 (1961-10-03) 1961年10月3日(62歳)
身長
体重175 cm
82 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手
プロ入り1982年 ドラフト3位
初出場1983年9月2日
最終出場1994年9月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


御殿場西高等学校

関東自動車工業

阪急ブレーブス
オリックス・ブレーブス
オリックス・ブルーウェーブ
(1983 - 1991)

読売ジャイアンツ (1992 - 1996)

コーチ歴


読売ジャイアンツ (1997, 2004 - 2005, 2007 - 2010)

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藤田 浩雅(ふじた ひろまさ、1961年10月3日 - )は、静岡県裾野市出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ
来歴・人物
プロ入り前

家業の食堂は何度も傾き、食うや食わずの生活をしてきた[1]御殿場西高校では2年先輩の杉本正とバッテリーを組んでいた1年先輩の捕手が投手にコンバートされたため、1年次の1977年秋に捕手へ転向。高校卒業後は大昭和製紙への入社を希望するも断念し[1]1980年関東自動車工業へ入社。3年目の1982年には都市対抗ヤマハ発動機の補強選手で出場してベスト8入りに貢献し[2]、打撃は粗削りであったが、その強肩に広島阪急などが目をつけた[1]。特に阪急は衰えが目立つようになった中沢伸二の後継としてリストアップし[1]同年のドラフト3位で阪急ブレーブスに入団。
阪急・オリックス時代

1983年は主に二軍河村健一郎バッテリーコーチに鍛えられて一軍出場は6試合に終わったが、秋季キャンプでは「バットを見るのが嫌になるくらい」振り込みを続け、フォームを改造[3]

1984年には衰えを隠せなくなっていた中沢伸二から正捕手の座を奪い、最終的に98試合出場でリーグトップの守備率.992・盗塁阻止率.423をマーク[3]。打撃では打率.287で83安打ながら22本塁打の好成績を残し、リードでも2桁勝利投手を4人送り出したほか、チーム防御率もリーグ唯一の3点台(3.72)を記録。「走ってこないかな」と手ぐすね引くほど強肩には自信があり、リードはエースの山田久志ら大ベテランに鍛えられた[3]。山田とのバッテリーでは、主に山田が配球を考え、カーブのサインに対しては遅いカーブ、速いカーブと投げ分けた[3]。リードの醍醐味を覚えたのが星野伸之とのバッテリーで、星野はMAX135km/hのストレートにカーブ、フォークの3種類しかなかったが、西武清原和博をして「星野と藤田のバッテリーは読みづらい」と言わしめている[3]。同年のリーグ優勝に貢献して新人王ベストナインダイヤモンドグラブ賞を受賞し、その後も正捕手としてチームを支えた。外国人投手とバッテリーを組むことが多く、抑え投手のアニマル・レスリーから(スキンシップとして)パンチを食らうことも頻繁にあった。「アイツのハングリー精神には頭が下がる」と阪急首脳陣全員が認めるガッツマンで、殴られても蹴られても耐える姿に上田利治監督も岡田栄球団社長も「1発殴られて何点とか、査定する時にはプラスのポイントをつけなければいかんな」とシーズン中から口をそろえて慰謝料を約束したが、1986年オフの契約更改では点数に入っていなかった[1]。藤田曰く「アニマルが投げる時はフォームも大きいし、意外と神経質だから神経もずい分使った。リードにも苦心しましたよ。それが認められなかったようで…」と複雑な表情を浮かべたが、当時12球団のレギュラー捕手は西武・伊東勤巨人山倉和博の3300万円を筆頭に2000万円台が当たり前であった。4年目とはいえ、藤田はレギュラー捕手としては12球団で一番薄給であった[1]。欠場したのは僅か4試合で、シーズン中には右手の3針縫う怪我をし、バットが満足に振れなくても、スローイングができなくても、チームのためにと出場を続けても、評価は低かった[1]。藤田は「他球団の捕手と比べてもあまりにも差がありすぎる。もう少し捕手の立場を理解してほしい」と訴え、「こうなったらアニマルに慰謝料でも請求しようかな」と半分冗談、半分本気で言い残して事務所を後にした。口約束とはいえ、監督、球団社長自ら慰謝料を用意するといった以上、査定担当者も見直しせざるを得なかった。2回目の交渉で前回より100万円多い1250万円を提示されようやくサインし、希望額に50万円足りなかったが、藤田は女房の苦労を分かってくれれば、それで良かった[1]

1985年には土佐キャンプ初日で強擦プレーの練習中、弓岡敬二郎からの送球を落球。上田に「なにやっとるんじゃ」と激怒され、を左足で蹴り上げられている[4]

1988年6月18日南海戦(西宮)で吉田豊彦から日本プロ野球史上5人目となる代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放つ[5]

1989年は故障もあり、若手の中嶋聡に正捕手を奪われた。ただし、中嶋が正捕手となってからも、ガイ・ホフマンドン・シュルジーが先発する時はスタメンに起用されていた。

1991年シーズン終了後に同じポジションの高田誠との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。藤田元司監督が3年越しのラブコールを送り、まとめた話であった[1]
巨人時代


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