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をお願いします。(2020年5月)藤田 平太郎(ふじた へいたろう、明治2年10月7日(1869年11月10日)[1] - 昭和15年(1940年)2月23日)は、日本の実業家、政治家。貴族院議員、男爵、公正会所属、従三位。藤田財閥2代目総帥。号は江雪。 藤田財閥創始者藤田伝三郎の長男として大阪府に生まれる。1888年(明治21年)、慶應義塾を卒業後、イギリスのロンドンに留学しロイヤル・カレッジ・オブ・サイエンスにて鉱山学を修得。帰国後、藤田組副支配人、次いで支配人、更に藤田組副社長となった。
来歴
1912年(明治45年)、父の死去に伴い男爵を襲爵する。1918年(大正7年)12月14日に貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[2]、1929年(昭和4年)9月25日まで在任した[3]。 父に似て美術品に造詣が深く、財界有数の収集家である。謡曲、能楽、茶道を嗜み号を江雪と称す(父は香雪で徳次郎は耕雪)。箱根にあった別荘や東京・目白台の邸宅「椿山荘」(文京区関口)を山縣有朋から買い取って別邸とすると政界、財界関係者が多く訪れた。コレクションは大阪市の藤田美術館に収蔵されている。 男爵は甥の藤田光一
財界数寄物
栄典
位階
1918年(大正7年)1月10日 - 正五位[4]
1933年(昭和8年)2月1日 - 正四位[5]
勲章等
1916年(大正5年)10月7日 - 勲三等瑞宝章[6]
1924年(大正13年)2月11日 - 勲二等瑞宝章[7]
1928年(昭和3年)12月28日 - 旭日重光章
1931年(昭和6年)10月7日 - 紺綬褒章飾版[8]
家族。妻の富子は政治家芳川顕正の三女[9]。
脚注^ 『華族名簿. 大正6年3月31日調』(華族会館、1917年)p.161
^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、25頁。
^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、38頁。
^ 『官報』第1630号「叙任及辞令」1918年1月11日。
^ 『官報』第1827号「叙任及辞令」1933年2月3日。
^ 『官報』第1259号「叙任及辞令」1916年10月10日。
^ 『官報』第3440号「叙任及辞令」1924年2月14日。
^ 『官報』第1434号「彙報 - 褒章」1931年10月8日。
^ 藤田平太郎男『代表的人物及事業』時事通信社, 1913, p276
参考文献
『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
奈良国立博物館『国宝の殿堂 藤田美術館展 曜変天目茶碗と仏教美術のきらめき』2019年。
関連項目
椿山荘
阿里山森林鉄路
外部リンク
藤田平太郎君『大正人名辞典』東洋新報社、1917
日本の爵位
先代
藤田伝三郎男爵
藤田家第2代
1912年 - 1940年次代
藤田光一
更新日時:2022年8月11日(木)22:45
取得日時:2022/12/02 19:30