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勲二等旭日重光章を着用した藤田傳三郎
藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保12年5月15日) - 1912年(明治45年)3月30日)は、日本の商人、実業家。明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田財閥の創始者。
建設、土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞などの経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いた。また有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家、数寄者としても名高い。号を香雪と称す。藤田組(現・DOWAホールディングス)の創始者。民間人で初めての男爵でもある。現在の山口県萩市出身。元奇兵隊士だとされるが詳細は不詳。 長州藩の萩(現・山口県萩市)で醸造業を営む藤田半右衛門常徳の四男に生まれる。家業は醸造業の他、藩の下級武士に融資を行う掛屋を兼営していた。幕末の動乱期に高杉晋作に師事して奇兵隊に投じたとされるが、奇兵隊士の名簿に伝三郎の名は載っていない。しかし、木戸孝允、山田顕義、井上馨、山縣有朋らと交遊関係を結び関係を作っているのは確かであり、この人脈が後に伝三郎が政商として活躍する素因となった。なかでも特に井上とは深い盟友関係となる。 1869年(明治2年)、長州藩が陸運局を廃止して大砲・小銃・砲弾・銃丸などを払い下げた時、伝三郎はこれらを一手に引き受け、大阪に搬送して巨利を得た。同年、伝三郎は大阪で兵部大丞山田顕義から軍靴の製造を提案されると、次兄の藤田鹿太郎、三兄で久原家を継いでいた久原庄三郎を呼び寄せて高麗橋に軍靴製造の店舗を設け、藤田傳三郎商社を設立した。1876年(明治9年)には皮革製作所製靴場(現・リーガルコーポレーションの前身)として整備を行っている。 1877年(明治10年)の西南戦争では陸軍に被服、食糧、機械、軍靴を納入し、人夫の斡旋まで行って、三井・三菱と並ぶ利益を上げている。 1878年(明治11年)大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の設立では五代友厚、広瀬宰平などと共に発起人となっている。 1878年(明治11年)12月に各府県から政府に納められた国庫金の中から贋札が発見され、政府内は騒然となった。やがて1879年(明治12年)9月15日、「ドイツ滞在中の井上馨と組んで現地で贋札を製造して秘かに持ち込んで会社の資金にしようと企てた」という疑惑によって伝三郎の会社に家宅捜索が入り、伝三郎は中野梧一・藤田辰之助(伝三郎の甥)・藤田鹿太郎(伝三郎実兄)・新山陽治(手代、のち小坂鉄道社長木村陽二[1])・佐伯勢一郎(大番頭)・河野清助(手代)・入江伊助(番頭)ら7名と共に拘引され、10月16日に東京に移送される。しかし12月20日、何ら証拠がなく無罪放免となり、3年後の1882年(明治15年)9月20日、神奈川県愛甲郡中津村の医師兼画家工・熊坂長庵から2円紙幣の贋札(2,000枚行使)815枚と用紙及び印刷器具が押収され、冤罪が晴れた。 藤田が狙われた背景として、まず一つには、長州人脈を頼りに若くして大金持ちになったのを妬まれたことがあった。もう一つは、背後に薩摩と長州の勢力争いがあった。薩摩側は西郷隆盛の戦死や大久保利通の暗殺と次々に有力者を失い、長州に押されていた。そこで薩摩閥が支配していた内務省警視局を動かして、長州系の大物の不正を暴く戦術が練られた。これより前に、長州閥の山縣有朋が政商・山城屋和助の汚職事件に連座したとして危うく政治生命を失いかけたことがあった。贋札に関する密告情報を得た薩摩閥の警視局は、井上馨と伝三郎を追い落とす好機ととらえた。 井上は1873年(明治6年)、大蔵大輔の時に尾去沢銅山(秋田県)に関連して、当時の山口県参事(知事)・中野梧一と結託して不正を働いたとして追及され、一時政界を追われた。その中野も当時の藤田傳三郎商社の共同経営者で、やはり贋札事件で検挙されているため、井上・中野・藤田の3人は黒い糸で繋がっているとの風説があった。その風説を世間に定着させることになったのは、この事件の直後から主として藩閥政治に批判的で自由民権運動に共感する講談師たちが語り始めた伝三郎の伝記だった。この伝記は虚実とりまぜた内容だったが、伝三郎は自身の主義として一切抗議も弁明もしなかったため、まるで事実としてまかり通ることになってしまった。
生涯
生い立ち
藤田組贋札事件