藤王康晴
[Wikipedia|▼Menu]

藤王 康晴基本情報
国籍
日本
出身地愛知県一宮市
生年月日 (1965-04-13) 1965年4月13日(59歳)
身長
体重184 cm
94 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション内野手外野手
プロ入り1983年 ドラフト1位
初出場1984年7月14日
最終出場1992年9月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


享栄高等学校

中日ドラゴンズ (1984 - 1989)

日本ハムファイターズ (1990 - 1992)

佐川急便中京支社(軟式)

監督歴


矢場とんブースターズ

この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

藤王 康晴(ふじおう やすはる、1965年4月13日 - )は、愛知県一宮市出身の元プロ野球選手内野手)。
来歴・人物

1965年4月13日愛知県一宮市で生まれる。一宮市立大和中学校卒業後は享栄高等学校へ進学し、1学年の秋季から4番・一塁手として活躍する。1982年全国高等学校野球選手権愛知大会に出場して決勝戦まで進出するが、野中徹博を擁する中京高等学校に抑えられて敗れた。1983年第55回選抜高等学校野球大会に出場すると、同僚の平田幸夫(のちに中央大学を経て河合楽器)の好投もあって準々決勝へ進出するが、東海大学付属第一高等学校に延長10回サヨナラ負けを喫し[1]、優勝は果たせなかった。藤王は大会記録となる11打席連続出塁を記録したほか、3試合で打率.900、出塁率.923と驚異的な記録を残した。同年夏は愛知大会決勝でまたも野中を擁する中京高等学校に敗れ、甲子園の連続出場は叶わなかった。高校通算で49本塁打を放っている。

1983年のドラフト会議において、地元の中日ドラゴンズから1巡目で指名され、入団する。左の長距離打者として期待され、背番号は高木守道の引退後に選手としては着用する者がいなかった1を与えられ[2]、期待度の高さがうかがえた。

1984年は夏場に一軍へ昇格し、代打起用を中心として優勝を争う試合で北別府学(広島)から本塁打を放つなど活躍した[3]ウエスタン・リーグでは打率.227、8本塁打と苦しんだ。

1985年には二軍で打率.277、翌年には打率.278・14本塁打と徐々に好成績を残すようになり、一軍でも出場機会を得た。

1988年には同期入団の山本昌らと共に業務提携していたロサンゼルス・ドジャース傘下のマイナーリーグへ野球留学として派遣された。

1989年5月18日の対読売ジャイアンツ戦(北九州市民球場)では、1点を追う9回表二死1,2塁で代打として登場し、廣田浩章から足元近くに投球されると(ボール判定)、ストッキングを脱いで死球をアピールする姿が全国放送で中継された。結局、判定は覆らず三振を喫して試合終了となった。中継ではスローVTRが流されたが投球は当たっておらず、そもそも死球ではなかった。

1990年年頭に田中幸雄早川和夫との交換トレードで、小松崎善久と共に日本ハムファイターズへ移籍した。移籍後は王貞治も行っていた一本足打法の習得に取り組み、同年のオープン戦では打率.347の結果を残した。同年は75試合に出場し、そのうち31試合が一塁手または指名打者として先発出場だった。

1991年には22試合と大きく出場数を減らす。

1992年には僅か3試合の出場で2三振と結果を残せず、同年限りで自由契約となり、そのまま現役を引退した。

現役引退後は佐川急便中京支社(現:佐川急便中京支店)へ就職し、セールスドライバーとして勤務しながら軟式野球部に所属してプレーを続けた。当時の中京支社内での藤王の勤務態度は非常に優秀で、佐川急便の社内報「飛脚」でも話題となるなど、社内では半ば伝説化していたほどだったという。その後、一度佐川急便を退社して実家の繊維業を継承しながら、2006年には中日ドラゴンズ球団応援歌「吹け吹け、伊吹おろし」の歌唱を担当し[4][5]、この様子が当時の中日新聞に掲載された[6]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:20 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef