藤波家
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}雪笹(ゆきささ)
本姓大中臣朝臣嫡流
家祖中臣常磐
藤波家(ふじなみけ)は、大中臣氏嫡流である公家・華族の家。公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵家[1]。 欽明天皇から中臣連の賜姓を受けた中臣常磐
概要
子孫は引き続き伊勢祭主及び神祇大副を世襲する。
江戸時代の家禄は172石[注釈 1]。他に祭主料666石余。幕末の藤波教忠(従二位・神祇大副、1823年 - 1891年)は、日米修好通商条約締結に反対し、「廷臣八十八卿列参事件」に参加した公卿の一人であった。
明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると藤波家も旧公家として華族に列した[4][5]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として言忠に子爵位が授けられる[7]。
言忠は侍従として明治天皇に仕えた他、新冠牧馬場および下総種畜場の御用掛となり、主馬頭を務めた。御厩制度の調査のために欧米にも出張し、日本の馬匹の飼養・改良に貢献した[8]。その功で従二位勲一等に叙せられた[9]。
藤波子爵家の邸宅は東京市芝区白金台町にあった[9]。 大中臣親定
系譜藤波家
太字は大中臣氏嫡流、実線は実子、点線は養子。
[藤波家]
親仲
[岩出氏]
岩出親章山幡親隆
能隆
岩出隆通
隆世棚橋隆蔭
小社定世隆直
定忠土御門蔭直
三条親忠親世
親世
藤波清世
清忠
秀忠
伊忠
朝忠
康忠
慶忠
種忠
友忠
藤波景忠
徳忠河辺忠長河辺隆亮河辺景英千種有補[10]
和忠
季忠[11]寛忠
寛忠若江公義
光忠澤量行三室戸陳光
教忠
言忠[12]
茂時[13]
道忠
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の藤波家領は、山城国愛宕郡西賀茂村のうち13石1升9合、山城国葛野郡梅小路村のうち32石9斗6升、山城国乙訓郡鶏冠井村のうち90石、山城国紀伊郡吉祥院村のうち36石2斗であり、合計4村・172石1斗7升9合。
^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規はこの大納言直任の例があるかどうかで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた[6]。
出典^ 小田部雄次 2006, p. 335.
^ 『大中臣祭主 藤波家の歴史』1頁。