藤沢周平
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藤沢 周平
(ふじさわ しゅうへい)
ペンネーム藤沢 周平(ふじさわ しゅうへい)
誕生小菅 留治(こすげ とめじ)
1927年昭和2年)12月26日
日本山形県東田川郡黄金村大字高坂字楯ノ下(現・鶴岡市
死没 (1997-01-26) 1997年1月26日(69歳没)
日本東京都新宿区戸山
国立国際医療センター[1]
墓地 日本・都営八王子霊園
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴山形師範学校
ジャンル時代小説
代表作『暗殺の年輪』(1973年)
たそがれ清兵衛』(1983年)
『海鳴り』(1984年)
『白き瓶』(1985年)
?しぐれ』(1988年)
市塵』(1988年)
主な受賞歴オール讀物新人賞(1971年)
直木三十五賞(1973年)
吉川英治文学賞(1986年)
芸術選奨(1989年)
菊池寛賞(1989年)
朝日賞(1994年)
紫綬褒章(1995年)
山形県県民栄誉賞(1997年)
鶴岡市特別顕彰(1997年)
配偶者小菅 悦子(1959年 - 1963年)
高澤 和子(1969年 - )
子供遠藤展子(先妻悦子の間に産まれた長女)
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藤沢 周平(ふじさわ しゅうへい、1927年昭和2年)12月26日 - 1997年平成9年)1月26日)は、日本小説家山形県鶴岡市出身。本名:小菅 留治(こすげ とめじ)。

江戸時代[注 1]を舞台に、庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残した[2]。とくに、架空の海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品群が有名である。
来歴・人物
生い立ち

山形県東田川郡黄金村大字高坂字楯ノ下(現在の鶴岡市高坂)に生まれる。父小菅繁蔵と母たきゑの第四子(兄弟は順に繁美、このゑ、久治、留治、てつ子、繁治)。実家は農家で、藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業に関わり、この経験から後年農村を舞台にした小説農業をめぐる随筆を多く発表することになる。郷里庄内と並んで農は、作家藤沢周平を考えるうえで欠くことのできない要素である。

1934年(昭和9年)、青龍寺尋常高等小学校入学(在学中に黄金村国民学校に改称。現在は鶴岡市立黄金小学校)。小学校時代からあらゆる小説、雑誌の類を濫読し、登下校の最中にも書物を手放さなかった。また、6年生の頃には時代物の小説を書いた[3]1938年(昭和13年)、11歳の時ひどい吃音に悩まされる[4]1942年(昭和17年)、15歳の時、黄金村国民学校高等科を卒業し、山形県立鶴岡中学校(現:鶴岡南高校)夜間部入学。昼間は印刷会社や村役場書記補として働いた。

1945年(昭和20年)、18歳、「8月15日の終戦のラジオ放送を、わたしは役場の控え室で聞いた。……喜びもかなしみもなく、私はだだっぴろい空虚感に包まれていた。しばらくして、これからどうなるのだろうと思ったが、それに答えるひとは誰もいないこともわかっていた。」(第七巻月報)[5]

1946年(昭和21年)に中学校卒業後、山形師範学校[注 2](現:山形大学)に進む[注 3]。一級上に無着成恭[6]がいた。入学後はもっぱら文芸に親しみ、校内の同人雑誌『砕氷船』に参加した(このときの同人蒲生芳郎、小松康裕、土田茂範、那須五郎、丹波秀和、松阪俊雄、小菅留治の7人、最初は自筆原稿の回覧、ポーの評伝を発表)。この時期の思いでは自伝『半生の記』に詳しく記されており、また小説作品にしばしば登場する剣術道場同門の友情などにも形を変えて描かれている。小菅は、二年生の夏と三年生の冬の二回肺炎になりかけた。二回目の時には意識不明の状態に陥っている。
教員時代

1949年(昭和24年)、山形師範学校を卒業後、山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校(鶴岡市湯田川、現在は鶴岡市立鶴岡第四中学校へ統合)へ赴任し[7]、国語と社会を担当。1951年(昭和26年)、『砕氷船』の後継誌である『プレリュウド』に参加した。優秀な教師として将来を嘱望され、教え子たちからも「体格がよく、スポーツマンで、色白で二枚目の素敵な先生」と慕われた。当時、この地方では師範学校卒の教師はエリートであり、順調な人生を歩み始めた。しかし、この年3月の集団検診で当時不治の病とされた肺結核が発見され、休職を余儀なくされる[8]

1952年(昭和27年)2月、東京都北多摩郡東村山町(現:東村山市)の篠田病院に入院し、保生園病院において右肺上葉切除の大手術を受けた。予後は順調で、篠田病院内の句会に参加し、静岡県の俳誌『海坂』(百合山羽公相生垣瓜人主宰)に投稿をおこなうようになる。北邨という俳号を用いた。またこの時期に大いに読書に励み、ことに海外小説に親しみ、作家生活の素地を完成させた。
記者時代

1957年(昭和32年)、退院準備に入るものの思わしい就職先が見つからず、郷里で教員生活を送ることを断念。歴史研究家の大井篤の妹・晴の勧めにより練馬区貫井町に下宿して業界新聞に勤めはじめるも、倒産などが相次ぎ数紙を転々とする。[9]1959年(昭和34年)、三浦悦子と結婚。8歳年下の同郷者であった。1960年(昭和35年)に株式会社日本食品経済社に入社、『日本食品加工新聞』の記者となる。以後作家生活に専念するまで同社に勤務、記者としての仕事は、本人の性にあっており、精力的に取材執筆を行う。のちに同紙編集長に昇進し、ハム・ソーセージ業界について健筆を振るい、業界の健全化に尽力した。コラム「甘味辛味」をほとんど一人で執筆。[10]取材先の一つで日本ハム創業者で当時社長の大社義規とは信頼関係を結んだ[11]。その一方で文学への情熱やみがたく、勤務の傍(かたわ)らこつこつと小説を書きつづけていた。当時はもっぱら純文学を志していたらしい(1963年(昭和38年)には、読売新聞短編小説賞に『赤い夕日』が選外佳作となった)。

1963年(昭和38年)、長女・展子(遠藤展子、藤沢没後はエッセイスト)が生まれ、清瀬市上清戸で間借り生活を始めるも、同年10月に・悦子が急性のにより[12]急死(28歳)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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