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藤枝 静男
(ふじえだ しずお)
誕生勝見 次郎(かつみ じろう)
1907年12月20日
日本・静岡県藤枝市
死没 (1993-04-16) 1993年4月16日(85歳没)
日本・神奈川県三浦半島
職業小説家
眼科医
言語日本語
国籍 日本
教育千葉医科大学卒業
活動期間1947年 - 1993年
ジャンル私小説
心境小説
代表作『犬の血』(1957年)
『空気頭』(1968年)
『愛国者たち』(1974年)
『田紳有楽』(1976年)
『悲しいだけ』(1979年)
主な受賞歴芸術選奨文部大臣賞(1968年)
平林たい子文学賞(1974年)
谷崎潤一郎賞(1976年)
野間文芸賞(1979年)
デビュー作『路』(1947年)
影響を受けたもの
志賀直哉
瀧井孝作
ウィキポータル 文学
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藤枝 静男(ふじえだ しずお、1907年12月20日 - 1993年4月16日)は、日本の作家、眼科医。本名勝見次郎。静岡県志太郡藤枝町(現・藤枝市)出身。 藤枝町市部(現在の藤枝市本町)の勝見薬局の次男として生まれ、成蹊学園から名古屋の旧制第八高等学校を経て1936年に千葉医科大学(現・千葉大学医学部)を卒業。眼科教授の伊東弥恵治(1891?1958)[1]に師事した。勤務医生活ののち独立、1950年から浜松市で眼科医院を営む傍ら、小説を書き続けた。1968年『空気頭』で芸術選奨文部大臣賞、1974年『愛国者たち』で平林たい子文学賞、1976年『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞、1979年には『悲しいだけ』で野間文芸賞を受賞。 本人の言の通り、簡潔で硬質な力強い文体と自他を隔てず冷徹な観察眼において、志賀直哉と瀧井孝作の影響を受けており、「心境小説」を独自のこだわりに推し進め、私小説の形をとりながら虚実のあわいに遊ぶような作品が多い。 曾宮一念、原勝四郎
人物
藤枝市では、毎年4月の命日に同市五十海の岳叟寺にて、藤枝静男墓前祭「雄老忌」を開催している。藤枝市出身の作家小川国夫が命名したものである。
2007年には、藤枝静男や小川国夫などの文学世界を展示紹介する藤枝市文学館が、市民憩いの場所蓮華寺池公園の郷土博物館に接続する形で開設された[2]。
略歴藤枝静男生誕の地の碑
1907年12月20日午前8時、静岡県志太郡藤枝町市部64に父鎮吉、母ぬいの第5子として誕生。家業は薬局。姉はる(10歳)なつ(8)兄秋雄(5)姉ふゆ(3)。父鎮吉は藤枝の旅館「魚安楼」桑原甚七の二男・新吉として生まれ、左官屋の勝見常吉の養子となって改名し、苦学して薬剤師となったが、結核を病み、家族に死をもたらす結果となった[3]。
1910年2月妹けい誕生。10月、 結核性脳膜炎により死亡。
1911年 妹きく誕生。
1913年 姉なつ、 肺結核により死亡。没年12歳。弟三郎誕生。
1914年 藤枝町立尋常高等小学校入学。大衆文学を読み耽る。弟三郎、結核性髄膜炎により死亡。
1915年 姉はる、結核性腹膜炎により死亡。17歳。弟宣誕生。
結核により兄弟を次々に奪われ(自身も罹患)、後に結婚した妻までも結核菌に侵され長い闘病生活を強いられたことは、藤枝文学の重要な要素となる。
1920年 成蹊学園4年制乙種実務学校入学。成蹊学園第1期生。
1923年 上級学校受験資格を得るために成蹊中学校に籍を移す。
1924年 4年修了で3月に成蹊中学校を退学し、 旧制第八高等学校を受験したが失敗。
1925年 予備校中野塾入学。白樺派からトルストイ、チェーホフを経て、志賀直哉に文学的関心が絞られる。
1926年 兄秋雄喀血、以後、死に至るまで病床に着く。旧制第八高等学校理科乙類入学。北川静男、平野謙、本多秋五と出会う。マルクス主義に傾倒する。
1928年 奈良市幸町に志賀直哉を訪問。小林秀雄、瀧井孝作と出会う。
1930年 北川静男、腸チフスにより死亡。千葉医科大学を受験するも不合格。
1931年 妹きく肺結核により喀血。再び千葉医大受験に失敗。
1932年 千葉医科大学入学。
1933年 学内左翼のモップルに献金し検挙される。千葉警察署に50日拘留され起訴猶予。無期停学処分を受ける。
1935年 父鎮吉が脳溢血で倒れ、半身不随、寝たきりとなる。
1936年 千葉医大卒業。眼科医となる。
1938年 静岡県浜名郡積志村西ヶ崎、菅原龍次郎3女智世子(大正5年11月11日生)と結婚。兄秋雄死亡。35歳。
1939年 - 1941年 長女章子、次女本子生まれる。
1942年 平塚市第2海軍火薬廠海軍共済組合病院眼科部長。
1942年 父鎮吉、脳溢血により死亡。70歳。
1943年 妻が肺結核を宣告され、人工気胸手術を受ける。
1945年 敗戦。本多秋五から『近代文学』創刊の知らせ。
1947年 処女作「路」が『近代文学』9月号に掲載。