藤林甲
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ふじばやし こう
藤林 甲
1961年9月(満53歳)
本名藤林 甲 (ふじばやし まさる)
生年月日 (1908-05-25) 1908年5月25日
没年月日 (1979-08-21) 1979年8月21日(71歳没)
出生地 日本 福岡県福岡市
死没地 日本 東京都
職業照明技師
ジャンル劇場用映画時代劇現代劇サイレント映画トーキー)、テレビ映画
活動期間1925年 - 1979年
配偶者有
事務所日活
主な作品
雪之丞変化
『蛇姫様』
昨日消えた男
宗方姉妹
西鶴一代女
戦艦大和
嵐を呼ぶ男
風速40米
紅の翼
パパと呼ばないで』 (テレビ映画)
水もれ甲介』 (テレビ映画)
俺たちの旅』 (テレビ映画)

 受賞
ブルーリボン賞
第9回ブルーリボン賞(1958年)
陽のあたる坂道
紅の翼
その他の賞
第11回「映画の日」永年勤続者表彰1966年

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藤林 甲(ふじばやし こう[1][2][3]1908年5月25日 - 1979年8月21日)は、日本の照明技師である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13]牧野省三マキノ・プロダクションにキャリアを始め、東宝を経て戦後、日活の製作再開とともに新東宝から移籍、石原裕次郎主演作のほとんどすべての照明を設計した[4][9][14]テレビ映画では、ユニオン映画の初期作品を手がけたことで知られる[12]。本名は同じで読みが「ふじばやし まさる」[4]。初期別名藤林 まさる(ふじばやし まさる)[2][9]日本映画テレビ照明協会の第5代・第7代会長を歴任した[15]
人物・来歴
サイレントの時代から

1908年(明治41年)5月25日、福岡県福岡市に生まれる[4]祇園小唄絵日傘 第一話 舞の袖』(1930年)。「配光」として藤林のクレジットが確認できる。

1921年(大正10年)3月、旧制小学校を卒業、同年4月、福岡県筑紫郡堅粕町(現在の同県福岡市博多区堅粕)の福岡県立福岡中学校(現在の福岡県立福岡高等学校)に入学するも、のちに中途退学する[4]。満17歳になる1925年(大正14年)には、同年6月に設立され、花園天授ヶ丘御室撮影所を開いたマキノ・プロダクションに入社、光線部(のちの同社配光部、照明部)に配属される[4][5][16]。同部には主任技師として大海源太郎[17][18]がおり、藤林は大海に師事した[5]。当時同社の助監督であった管家紅葉(1909年 - 2006年)は晩年の回想で、大海は「心安かった」、その弟子である藤林も「親切でした」とその人柄を述べている[5]。同年に入社、同じ照明部に配属された同僚に西川鶴三(1910年 - 1970年)がいる[19]

1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、マキノ・プロダクションは、長男のマキノ正博(のちのマキノ雅弘、1908年 - 1993年)を中心とした体制になる[16]。新体制において藤林の名は見られないが、師の大海が「電氣主任」として記されており、新体制以降も同社に在籍、翌1930年(昭和5年)2月28日に公開された『祇園小唄絵日傘 第一話 舞の袖』(監督金森万象、撮影松浦茂)には藤林 まさるの名で廣石常雄と共同で「配光」(照明)としてクレジットされており[9]、同年7月6日に公開された『少年戦線』にも、同名義で大海と共同で「照明」としてクレジットされている[2][9]。正確な技師昇進時期は不明であり、この時期に手がけた他の作品については、現状のデータベース等では明らかにはされていない[1][2][6][7][8][9]。1931年(昭和6年)に入ると同社の製作業務が行われなくなり、同年10月、同社は解散しているが[16]、同年のある時期に松竹下加茂撮影所に移籍した[4][5]
長谷川一夫の時代雪之丞変化』(1935年)。支那の夜』(1940年)の長谷川一夫李香蘭

『日本の映画人 - 日本映画の創造者たち』では、1935年(昭和10年)6月27日に公開された林長二郎主演作『雪之丞変化 第一篇』(監督衣笠貞之助、撮影杉山公平)を「技師一本目作品」としており[4]日本映画データベースでも「藤林甲」名義の最古の作品に位置づけている[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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