藤村哲哉
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藤村哲也」とは別人です。

藤村 哲哉(ふじむら てつや、1953年2月6日 - )は、日本実業家。ギャガ・コミュニケーションズ(現・ギャガ)創業者、元代表取締役社長[1][2]。現「フィロソフィア・エンタテインメント・アライアンス」社長。広島県広島市中区出身[1][2]
経歴[ソースを編集]

父親は戦中、勤務先の三菱重工業広島造船所内で被爆[2]。広島市立白島小学校5年12歳まで広島市にいて、喘息の持病のため、母方の実家のある尾道市に引越し山寺で療養しながら育つ[2]尾道北高校を経て一浪後、1976年慶應義塾大学法学部卒業[1][2]。母親の希望で地元の東洋工業(マツダ)に就職を予定し、東洋工業の松田耕平社長も慶應義塾大学OBで常任理事だった関係で九分通り入社できる予定であったが、突然のオイルショックで新卒採用が中止される[2]。当時下り坂だった赤井電機に入社し貿易部門に5年間勤務、カダフィ大佐支配の動乱のリビアでの代金回収など、中近東欧州市場を担当した[2]。しかし病気の発症で度々会社を休む。1981年、28歳の時、仕事を通じての知り合いにスカウトされサウジ資本のベンチャーキャピタル・「ジャミール・エス・アイ」入社、貿易部門の責任者となる[2]。ベンチャー企業に投資を行うこの仕事に携わり、自身も猛烈な起業への意欲が湧く。1984年同社退職後、映像ソフト輸入会社「ヒップ・テラン」を設立した後、1986年ギャガ・コミュニケーションズ」を設立した[1][2]。社名は前会社の最後のヨーロッパ出張中、ホテルのベッドに寝転がって、個性ある名前はないかと、コンサイス英和辞典をぱらぱら見て決めた。Gという語感が好きで、Gで始まるのを見ていると、GAGA=「ミーハーな映画ファン」と出ていて「これだー」と思わずベッドから起き上がったという[1]。ところが大きな辞書には載っておらず、ハリウッドにフィルム買い付けに行くと誰も「ギャガ」と発音してくれず「ガガ」と言って、みんな最初は笑う。「ガガ」は「変人」の意味があって面白がられ、みんな名前をすぐ覚えてくれて良い作品を売ってくれたり商談に役立った[1]ビデオデッキレンタルビデオ店の登場で、ビデオ用ソフトが絶対に当たると読み、映画の旧作や日本未公開のマイナー作品のビデオ化権を片っ端から買い付け、圏内ビデオメーカーに売り捌く、というビデオの版権ビジネスを起こし、ホームビデオに映画を流通させる仕組みを日本で最初に構築した[1][2][3][4]。それまで、日本における映画の配給は、邦画の全国規模の劇場公開チェーンを実質的に独占する東宝松竹東映日本ヘラルドを加えた四社体制が続き、彼らは映画配給の王道はロードショー(劇場公開)と考えていて、こうした事業には関心を示さなかった[3]。当時は外国映画の日本国内でのビデオ化権を買い付けるという仕事をする人もなく、藤村自らが外国の映画祭に行き、洋画ビデオ化権を買い漁った。特にB級にも及ばないZ級アクションホラーを大量に購入、予告編を次から次に見て、血しぶきが多いとこれは買いと即決したという[5]。あまりにも多くの作品を買い付けたため、契約書にサインしていると腱鞘炎になりそうだったという逸話も残る[6]。世界的規模でのビデオデッキの普及で、手に入れた洋画のビデオ化版権を流行し始めたレンタルビデオ・ショップを通じて流通させるという全く新しいビジネス・システムを構築し、洋画の流通に新たな市場を開拓した[3]

予想通りレンタルビデオ市場の急速な拡大で業績を伸ばし、翌年1987年からは映画配給事業に本格参入。大きな障害となったのが劇場のブッキング[1]。映画館と映画配給会社とは古くから強固なフィルムの貸借契約があり、新規の会社は実績がないので、悪い時期に悪い劇場しかもらえない[1]。藤村は配収予想をITを使って行うなど、新しいやり方を古い業界に持ち込む。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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