藤本真澄
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藤本真澄(1953年)

藤本 真澄(ふじもと さねずみ、(1910年明治43年)7月15日[1] - 1979年昭和54年)5月2日[1][注釈 1])は、日本の映画プロデューサー。元東宝副社長、東宝映画初代社長。日本映画黄金期のヒット作を多数手掛けた東宝の看板プロデューサーである[2]
経歴

旧満州旅順生まれ[3][注釈 2]海軍軍医だった父の転任に伴い、長崎県佐世保市対馬広島県呉市神奈川県横須賀市京都府京都市広島市で育ち1928年県立山口中学校卒業後二年浪人。少年期から映画に熱を上げ映画館に通いつめ「塚本靖」名で『キネマ旬報』に映画批評を投稿したりした。「塚本靖」名では東宝の新人時代、アイデアを出した数本の映画に原作者としてのクレジットがある。1934年慶應義塾高等部在学中に三映社でアルバイトをして映画の宣伝を担当、ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』(1930年)やリーフェンシュタールの『青の光』(1932年)などを手掛けた[4]。慶應卒業後は明治製菓で3年間宣伝の仕事を担当[1]。そこで明治製菓とタイアップしていた松竹蒲田撮影所に出入りして五所平之助成瀬巳喜男と知り合う。宣伝映画を頼んだ成瀬とその映画に出演した松竹大船子役だった高峰秀子と親しくなり後に引き抜くこととなる。成瀬・高峰とはその後、盟友として多くの名作を生み出し、また終生の友人として付き合った。藤本が明治製菓を辞めた後に入ったのが戸板康二[4]1937年、森岩雄に誘われて東宝の前身であるP.C.L.映画製作所に入社[1]

1940年助監督となるが、関連会社の南旺映画に出向して撮った1941年の『結婚の生態』(原作石川達三、監督今井正、主演原節子)を初プロデュースして製作に転じた。終戦までに成瀬巳喜男監督の『秀子の車掌さん』や島津保次郎監督の『母の地図』、今井正監督の『望楼の決死隊』、山本薩夫監督の『翼の凱歌』などをプロデュースした[1]

戦後1947年東宝争議で製作責任者となり、翌年の警官隊導入の責任をとって東宝を退社する。1949年独立プロ・「藤本プロダクション」を設立して各社の製作を請け負う[1]。東宝が争議後の混乱で自主製作能力がなく、東宝で製作を中絶されていた『青い山脈』を引き受け大ヒットを記録する。あまりにも有名な主題歌を監督の今井正は嫌で嫌で仕方なかったというが、喧嘩して今井が編集室から飛び出した間に藤本が助監督に指示して入れさせ、ラストシーンに延々と流し続けた、というエピソードが残っている。明治製菓の元宣伝マンという経験から主題歌を作ることで、映画の宣伝効果が格段に上がることを知っていた。出版社新聞社にも顔が広く原作物の映画化権を次々獲得、作家が小説を書き始める前に映画化権を獲得したといわれる。特に慶應の先輩・石坂洋次郎作品の映画化権を独占した。

1951年、東宝に復帰[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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