藤本京太郎
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藤本 京太郎
OPBF/WBOアジアパシフィック・ヘビー級2冠戦 2018年5月7日
生年月日 (1986-06-23) 1986年6月23日(35歳)[1]
出身地大阪府大阪市住之江区[1]
国籍 日本
身長183 cm (6 ft 0 in)[1]
体重ヘビー級[1]
リーチ186 cm (73 in)
スタイル右ボクサー[1]

キックボクシング記録
試合数25
勝利19
ノックアウト10
敗戦6


プロボクシング記録
試合数23
勝利21
ノックアウト13
敗戦2
ノックアウト2

藤本 京太郎(ふじもと きょうたろう、1986年6月23日[1] - )は、日本男性プロボクサーキックボクサー大阪府大阪市住之江区出身[1]。第2代K-1ヘビー級王者。第2代日本ヘビー級王者。第21代OPBF東洋太平洋ヘビー級王者。元WBOアジア太平洋ヘビー級王者。角海老宝石ボクシングジム所属(2020年11月12日、日本ボクシングコミッションにライセンスを返上し、ボクサーを引退)。目次

1 人物

2 来歴

2.1 K-1時代

2.1.1 世界ヘビー級王座獲得


2.2 プロボクシング転向

2.2.1 日本ヘビー級王座獲得

2.2.2 OPBF東洋太平洋ヘビー級王座獲得

2.2.3 WBOアジア太平洋ヘビー級王座獲得



3 エピソード

4 戦績

5 主な獲得タイトル

6 脚注

7 関連項目

8 外部リンク

人物

日本人史上初のK-1重量級世界王者であり、試合ごとに変わる奇抜かつ派手なヘアースタイルが特徴。その髪型とは裏腹にスーパーヘビー級の外国人選手との対戦においてのファイトスタイルは堅実で、フットワークを活かしたローキックカウンター狙いのヒット・アンド・アウェイが中心。しかし、2008年にマイティ・モーに判定勝利しながらも、あまりにも露骨に逃げ回りながらのカウンター狙い一辺倒の戦法だったために批判を浴び、金星を上げたにもかかわらず地上波放送でもカットされ、K-1プロデューサーの谷川貞治からも注意されたことをきっかけに打ち合う場面も増えている。また、日本人離れした打たれ強さも持つ。キックボクサー時代はリングネームの変更が多く、「前田 慶次郎」「狂太郎レンジャー」「強太郎レンジャー」、「京太郎」というリングネームを使用していた。

2014年7月1日より芸能プロダクションのオンリーユーにマネージメント提携を受ける。

ボクシングでもオーストラリアニュージーランド出身のボクサーが戴冠してきたOPBF東洋太平洋ヘビー級王座をアジア人として初めて戴冠すると[2]、空位となっていたWBOアジア太平洋ヘビー級王座の戴冠も果たし[3]、日本人として初めて日本王座、OPBF王座並びにWBOアジア太平洋王座のヘビー級3冠を果たした。
来歴
K-1時代

2006年5月17日、J-NETWORKに狂太郎レンジャーのリングネームでプロデビュー。花田純一にKO勝ち。

2007年2月25日、「K-1 JAPAN TRYOUT」に参加。基礎体力診断、ミット打ちなどをクリアし、合格となった[4][5]

2007年5月3日、「K-2 GRAND PRIX 第18回全日本新空手道選手権大会」重量級(75kg以上)に京太郎として出場。決勝で菊池純一に勝ち、優勝を果たした[6]

2007年5月4日から5月6日にかけてゴールドジム幕張千葉アネックスで行われた「K-1 TRYOUT 日本選考合宿」に参加し、マイク・ベルナルドがコーチを務める「チーム・ベルナルド」所属となり[7][8]、7月17日から約2週間、立川隆史と共に南アフリカで海外合宿を行った[9]

2007年8月16日、K-1 TRYOUT 2007 SURVIVALでK-1 YOUNG JAPAN GPトーナメントに強太郎レンジャーと改名し出場。1回戦で百瀬竜徳に判定勝ち、決勝でも佐藤匠に判定勝ち。本戦出場を決めた。決勝の佐藤戦では3R終了間際にパンチラッシュを受けゴング直後にリングに倒れこむほどであった。判定はドローとなり延長戦に突入、ダメージを心配したセコンドが試合を放棄しようとしたが、本人がこれを固辞するという一悶着があり、大幅なインターバルとなってしまった。

2007年12月22日、チームドラゴン主催興行のメインイベントで中迫強と対戦し、右フックでKO勝ち。

2008年1月、リングネームを「前田 慶次郎」に改めた。戦国武将前田利益の通称「慶次郎」と師匠前田憲作に由来する[10]

2008年4月13日、K-1 WORLD GP 2008 IN YOKOHAMAマイティ・モーと対戦、正面から打ち合わずローキックを蹴りながら逃げ続けて判定勝ち。大金星をあげるも地上波放送はされなかった。試合後、「熱のある試合ができなかった」と反省のコメントを残した。

2008年6月29日、K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAで行われたK-1 JAPAN GPに出場。1回戦で武蔵に判定勝ち、準決勝で佐藤匠に判定勝ちしたものの、決勝でエヴェルトン・テイシェイラに判定負けし、準優勝となると同時にキャリア初黒星となった。
世界ヘビー級王座獲得

2009年3月28日、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAの第2代K-1ヘビー級王者決定トーナメントに出場。1回戦でメルヴィン・マヌーフにカウンターの右フックでKO勝ちし、続く決勝でグーカン・サキと延長戦の末に2-0の僅差判定勝ち。K-1で日本人初となる重量級の世界王者となった。

2009年8月4日の公開練習で8月11日の試合よりリングネームを本名の京太郎に変更することが発表された[11]

2009年9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16ルスラン・カラエフと対戦し、0-3の判定負けを喫した。

2010年2月28日、新日本プロレス興行で中邑真輔と2分2R・K-1ルールのエキシビションマッチを行った。2R終了後、プロレスルールのEXTRAラウンドも行われ、ドロップキックも繰り出した[12]

2010年4月3日、K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAで行われた、K-1世界ヘビー級タイトルマッチでピーター・アーツと対戦。試合前は京太郎の圧倒的不利が予想されたが、序盤から圧倒し、2Rに右ストレートでKO勝ちを収め初防衛に成功した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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