株式会社藤本ビルブローカー銀行
Fujimoto Bill Broker and Bank Company, Ltd.種類株式会社
本社所在地 日本
大阪府大阪市東区北浜五丁目30番地(現在の同府同市中央区北浜四丁目)
設立1907年3月25日
業種ビルブローカー銀行
事業内容手形割引
代表者藤本清兵衛
売上高433億9,420万円(1923年)
主要株主藤本清兵衛
関係する人物渋沢栄一
平賀敏 代表取締役会長
横田義夫
株式会社藤本ビルブローカー銀行(ふじもとビルブローカーぎんこう、1907年 改称開業 - 1933年 廃業改称)は、かつて存在した大阪府の銀行である。「大正バブル」と呼ばれる時代のベンチャー企業であるが、大和証券グループの前身となった。 1902年(明治35年)5月、八木商店社長・八木輿三郎の親戚である2代目藤本清兵衛が個人商店「藤本ビルブローカー」を大阪に開業、同社の業務を継承して、1906年(明治39年)10月16日、「株式会社藤本ビルブローカー」を設立、同年11月1日開業した。同社は、半年後の1907年(明治40年)3月25日、銀行営業の認可を受け、翌日の同月26日に商号変更して開業したのが、「株式会社藤本ビルブローカー銀行」である[1]。「ビルブローカー銀行」とは、当時の6種別(中央銀行、特殊銀行、都市銀行、地方銀行、貯蓄銀行、ビルブローカー銀行)のひとつであり、短資業兼営を行う銀行である。 1909年(明治42年)3月18日、大日本製糖をめぐる汚職事件「日本製糖汚職事件」(日糖事件)で債権者に支払猶予を申請した。日糖の相談役・渋沢栄一が奔走し解決に向かったが、日糖の監査役だった藤本の経営する同銀行は、一度倒産するが、再建を果たす。 1920年(大正9年)、竹中工務店大阪設計部の島本四郎が設計した「藤本ビルブローカー銀行本店ビルヂング」が大阪に完成[2]。同ビルは現存しない。1924年(大正13年)には、同じく竹中の武田五一が設計した「門司支店ビルヂング」が福岡県門司市浜町2番地(現在の同県北九州市門司区浜町
概要
1932年(昭和7年)12月22日の株主総会で銀行業廃止と改称を決議し、同年12月23日、業務廃止の認可を受け、翌1933年(昭和8年)1月1日、「藤本ビルブローカー証券株式会社」に商号変更した。その後、1942年(昭和17年)7月1日、「藤本証券株式会社」に商号変更、翌年末の1943年(昭和18年)12月27日に株式会社日本信託銀行と合併し、大和證券株式会社(現在の大和証券グループ本社)を新しく設立した[4]。1949年1月には資金部の短資業務を柳田短資に事業譲渡し、柳田短資は東京短資に商号変更した。 当行創業者の藤本清兵衛(1870年 - 1949年)は、和歌山の柳仁兵衞の子・為之助として生まれ、初代藤本清兵衛(1841年 - 1891年)の養女の婿となり、家督を継ぎ襲名した[5][6]。初代清兵衛は丹波の旭村 (京都府)の小作農家の子として生まれ、大坂曾根崎の米穀商・住吉屋清兵衛の養嗣子となり、清兵衛と名を改め25歳で独立、大阪市肥後橋南詰で米商を営み、淀川の水運を利用した京都との間の米穀取引で成功した人物で、明治維新後藤本姓を名のった[7][8]。維新後の激しい相場変動を乗り切って財を成し、米の輸出業も始めるなど、大阪屈指の米穀商となり府会議員も務めた[8]。
創業者
2代目清兵衛は初代のもとで米相場の修業後、手腕を見込まれて嫡子となり、初代の築いた財を引き継ぎ、1895年に東区横堀一丁目(現・中央区久太郎町)に藤本銀行を設立[10][11]。欧米視察後、1902年にビルブローカー(手形仲買)を業とする藤本ビルブローカーを開業、多数の企業に名を連ね、「第二の松本重太郎」と呼ばれるほど関西財界で名を成した[5][6][11]。日糖事件による破綻後、1909年に当行会長を辞任、その後は神戸米穀取引所理事長、東讃電気軌道社長のほか、浪花土地、摂津土地、帝国土地、大阪土地建物、臨港土地、関西瓦斯、大地城東土地、摩カ山ケーブル鉄道、明治瓦斯、大手銀行、大正貯金銀行、千日土地建物などの役員を務めた[6]。
2代目清兵衛の実弟で相場師の柳広蔵は、当行の2代目会長を務めたが翌年辞任し、平賀敏が会長となり、朝吹英二、早川千吉郎、武藤山治、池田成彬、野崎広太、島徳蔵らの支援を得て復興した[12][11]。
関連事項
八木商店
八千代生命保険
葛原冷蔵
山根ビルブローカー(藤本ビルブローカーから1909年に独立。現・セントラル短資)
脚注[脚注の使い方]^ 「銀行図書館」サイト内の「銀行変遷史データベース」の記事「 ⇒藤本ビルブローカー」の記述を参照。