ふじき たかし
藤木 孝
1962年
本名遠藤 與士彦(えんどう よしひこ)[1]
別名義藤木 敬士(旧名)[2]
生年月日 (1940-03-05) 1940年3月5日
没年月日 (2020-09-20) 2020年9月20日(80歳没)
出生地 日本・静岡県富士宮市[3]
死没地 日本・東京都中野区[1]
身長173 cm[4]
職業俳優・歌手
ジャンル映画・舞台・テレビドラマ
活動期間1959年 - 2020年
事務所ホリプロ・ブッキング・エージェンシー
公式サイト公式プロフィール
受賞
菊田一夫演劇賞
演劇賞(1986年)
『ロッキー・ホラー・ショー』
『ブラック・コメディ』
紀伊國屋演劇賞
個人賞(2003年)
『ナイチンゲールではなく』
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藤木 孝(ふじき たかし、1940年3月5日[4] - 2020年9月20日[5][6])は、日本の俳優、歌手。静岡県富士宮市出身[3]。ホリプロ最終所属[7]。本名は遠藤 與士彦(えんどう よしひこ)[1]。
1970年代には、藤木 敬士(読みは同じ)という芸名で活動していた。 東宝芸能学校卒業後の1959年、歌手として渡辺プロダクションと契約。テイチクレコードからデビューし、歌唱力とダンスの才を活かし、1960年代前半にヒット曲を連発して「ツイスト男」の異名で当時のツイスト・ブームを牽引した。 1962年、人気絶頂の中で歌手引退を表明。渡辺晋の反対を押し切って退社し、同年、文芸プロダクションにんじんくらぶに入り、俳優へと転身。 演技を基礎から学ぶために文学座の研究生を経て、1966年に劇団欅の結成に参加。 1974年頃に芸名を「藤木敬士」に改名。このきっかけは佐良直美から「あんたの名前(藤木孝)はどう見ても良くない」と改名を勧められたことで、易の専門家に依頼して名付けた。するとこの年の10月からスタートした『夜明けの刑事』(TBS)にレギュラーで起用されるなど、客演中心だったそれまでから変化し、自らも「状況が変わって来た」といったことを話している[9]。 1976年からは劇団雲と劇団欅の統合により誕生した劇団昴に所属し、2006年に退団。 歌手としての実績を買われてミュージカルに多数出演する一方、特異な存在感で悪役や怪優としても評価され、1986年には第12回菊田一夫演劇賞[10]、2003年には第38回紀伊國屋演劇賞個人賞[11] を、2005年には第45回ACC CMフェスティバル演技賞[12] を受賞している。 生前はかつての所属事務所の同業他社のライバル会社であるホリプロに所属していた。過去に渡辺プロダクションに所属していた人物のホリプロ移籍は非常に珍しい事例である。 2020年9月20日未明、東京都中野区の一軒家を改造したアパート2Fで亡くなっているのを発見された。近所の人の話では「ベランダで良くセリフの練習をしてた。まさか藤木孝さんだとは思わなかった」と言っていた[5][6]。80歳没。 ※「 - 」は役名
来歴・人物
出演
舞台
マイ・フェア・レディ(1964年、東京宝塚劇場) - フレディ
風と共に去りぬ(1970年、帝国劇場) - チャールズ・ハミルトン
嘘から出た誠(1977年) - ドラント
クレオパトラ ?砂漠の不死鳥?(1979年、新宿コマ劇場)
お熱いのがお好き(1986年、シアターアプル)
ジョージの恋人(1987年、青山劇場)
ロッキー・ホラー・ショー(1986年、シアターアプル / 1987年、サンシャイン劇場) - フランケン・フルター
真田風雲録(1988年、よみうりホール) - 由利鎌之助
バスストップ(1990年、博品館劇場)
LE BAL(1991年、シアターコクーン)
夏の夜の夢(1991年、東京グローブ座) - オーベロン
ソングデイズ(1991年、東京グローブ座)
ルナ(1992年、セゾン劇場)
仮名手本ハムレット(1992年、俳優座劇場)
カルメン(1992年、俳優座劇場) - エスカミリオ
リチャード二世(1994年、三百人劇場) - リチャード二世
藪原検校(1995年、紀伊国屋ホール)
きらめく星座(1996年、東京芸術劇場) - 権藤三郎
プリマ・ドンナ(1996年、東京芸術劇場) - アンデルセン
ドアをあけると…(1997年、PARCO劇場) - ジュリアン
42ndストリート(1997年、日生劇場) - パット・デニング
王様と私(1998年、劇場飛天) - エドワード・ラムゼイ卿
アイリーン(1998年、日生劇場) - オジー・バブソン
新・雨月物語(1999年、新国立劇場) - 山伏 / 面頬の武士
ローマの休日(1999年、中日劇場) - マリオ