藤木幸太郎
[Wikipedia|▼Menu]

ふじき こうたろう藤木 幸太郎
生誕
1892年2月18日
日本 神奈川県久良岐郡戸部村(現・横浜市西区戸部町
死没 (1980-11-01) 1980年11月1日(88歳没)[1]
職業藤木企業代表取締役
子供藤木幸夫
親桜木岩五

藤木 幸太郎(ふじき こうたろう、1892年2月18日 - 1980年11月1日)は、横浜・戸部生まれの港湾事業家。港湾荷役業の藤木組(現在の藤木企業)を立ち上げ、1955年に業界団体の会長に就任[2]港湾労働法の成立、諸制度の改革、近代化に尽力した[1]

日本初のメーデー(1920年)を開催した横浜港沖仲仕同盟会への賛助、関東大震災(1923年)の救援活動、米軍による港湾施設接収[3](1945年?)を耐え抜く等、横浜港の歴史とともに歩んだことから「ミナトのおやじ」と呼ばれた[4]
来歴

神奈川県久良岐郡戸部村(現・横浜市西区戸部町)出身。兵庫県淡路島出身の桜木岩五と福井県出身のリエの次男として生まれた[5]

安政5年6月19日(1858年)に日米修好通商条約が締結され、横浜港が開港する。桜木岩五は翌安政6年(1859年)に横浜に移り住み、原善三郎の経営する生糸貿易商「亀屋」で差配の仕事を始めた。

1903年、幸太郎が尋常戸部小学校(現・横浜市立戸部小学校)4年生の時、父親が失踪[6]。幸太郎とリエは、福井県にあるリエの実家に移ったが、2年後に岩五から、東京の浅草に八百屋を開店したとの知らせが届いた。幸太郎は父の八百屋を手伝う。1907年、兄の太郎が腹膜炎をこじらせて急逝したのを機に、桜木姓を捨てて母親の藤木姓で通すようになった[5]

17歳の時に船乗りを志し、貨物船の炊事係などを経て、1910年に三菱汽船の港湾荷役を取り扱う本間組に入社。翌1911年には甲種沖仲仕の鑑札を取得した。

その3年ほどのち、神戸の鶴井組が京浜工業地帯の埋立機材を扱うに当たり、横浜の港湾労働者は自分たちの職域が荒らされると思い関わろうとしなかったが、藤木は「港で働く者に関東も関西もない。お互い様だ」と、鶴井組の現場責任者の酒井信太郎を手伝った。酒井はそののち横浜で酒井組を設立。1913年、藤木は責任者の立場で迎え入れられた。現場で先頭に立ち、能率よく迅速に荷役を行う仕事ぶりは「藤木の早荷」と呼ばれ、業界で一目置かれるようになった。

1920年、沖仲仕たちが「横浜港労働組合」の創立大会を開き、それまでの人足請負業者と対立した。多くの業者は沖仲仕の待遇改善に反対したが、このとき神戸からやってきた酒井信太郎や藤木らは沖仲仕争議団の味方についた[7]

1923年1月、のれん分けのような形で藤木組を創設。海岸通3丁目に事務所を構えた。藤木組は、笹田組や鶴岡組とともに沖仲仕向けの賭場を開いた[8]

関東大震災の時は、壊滅状態の横浜港で沖仲士や艀船頭を集め、救援米や援助物資の輸送に活躍した[1]

1925年1月、酒井信太郎の提唱により、神戸の鶴井寿太郎、藤原光次郎と結び、親睦団体の「鶴酒藤兄弟会」が結成された。全国の港湾業者は鶴酒藤の傘下に入った[9]

一時期、博徒の親分として横浜を牛耳ったが、ヤクザを卒業して堅気の社長に戻った[10]

1941年10月、戦時統合により横浜船舶荷役株式会社が発足したが終戦後の1946年9月に解散。統合前の組から新会社が数社発足。藤木組も1947年7月25日に法人組織として「株式会社藤木組」として設立、同年11月に「藤木企業株式会社」に改められた[11][2]

1956年8月、港湾運送事業法(1951年)が制定されたことにより[1]、全国港湾荷役振興協会が設立され、初代会長に就任した。副会長には、港湾荷役会社「甲陽運輸」を経営していた山口組三代目組長の田岡一雄が就いた[8]

1980年11月1日、死去[2]。88歳没。
脚注^ a b c d 県百科事典 1983, pp. 737.
^ a b c沿革 - 藤木企業株式会社


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:16 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef