藤岡和賀夫
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ふじおか わかお
藤岡 和賀夫
生誕
1927年11月3日
兵庫県
死没 (2015-07-13) 2015年7月13日(87歳没)
国籍 日本
出身校東京大学法学部
職業広告プロデューサー
配偶者あり
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藤岡 和賀夫(ふじおか わかお、1927年(昭和2年)11月3日 - 2015年(平成27年)7月13日)は、日本の広告プロデューサー
人物・来歴

兵庫県で生まれ、3歳から東京で育つ。1946年に旧制東京高等学校(現・東京大学教育学部附属中等教育学校)を卒業後、東京帝国大学に進学する。1950年(昭和25年)、東京大学法学部(在学中に東京大学に名称変更)卒業後、電通に入社。国家公務員試験にも合格したが、小学校から大学の学部まで同じ3歳年上の兄が大蔵省に入省していた[1]。「もう比べられたくない」と、好きな映像の仕事ができそうな企業を選んだ[1]

社会や生活者の価値観に向けて語りかける広告を。そんな脱広告の視点で世の中を見つめ[2]1980年(昭和55年)PR局長(役員待遇)に就く。電通きっての逸材だと高く評価する人もいたが、同時に電通きっての目立ちがり屋だと批判する人も少なくなく、毀誉褒貶が激しかった[3]。1987年11月に退職。

以降はフリープロデューサーとして活躍し[4]、「直伝塾」を創設し後進の育成に努めたほか[2]、文化イベントを手掛けた[1]。晩年は全国を訪ね歩き、消えゆく日本の美しい原風景や言葉を記録し、文献に残した[2]

2015年(平成27年)7月13日、心不全のため死去[5]。87歳没。
手掛けた主なプロデュース
モーレツからビューティーフルへ

1970年(昭和45年)3月に発表されたこのコピーは、藤岡が、はじめて、"脱広告"を試み、そのことで一躍彼を有名にした。富士ゼロックスの広告なのだが、富士ゼロックスの商品宣伝はおろか企業をPRする言葉も一切ない。企業名が記されていなければ、どの企業の広告なのか、いや、このコピーが広告であることさえわからない。その意味では、文字通り革命的だった[6]

68、69、そして70年といえば、水俣病イタイイタイ病四日市ぜんそくなどに象徴される公害と、学生運動が全国的に吹き荒れた時代だった[7]。「公害は生産第一主義のひずみだし、学生運動も、つまりは働け、働けのモーレツ主義に対する批判として生じたものなのですよ。要するに、60年代の私たち日本人を支配していた価値観だったモーレツ至上主義は、もはや時代に適応しなくなっている。これからは人間の時代だ、と。人間らしく生きようじゃないか、と。それを、私はビューティーフルという新しい言葉によって訴えたのですよ」と藤岡は明かしている[7]
ディスカバー・ジャパン

国鉄は、当時(1970年)すでに累積赤字が8000億円になっており、72年には、1兆2000億円を突破すると推定されていた[8]。そうした折に開催の大阪万博には、6000万人もが押し寄せ、国鉄はそのうち2200万人を運んだ[8]。この万博にそなえて国鉄は、新幹線を中心に輸送能力を上げるために大改良を行い、約400億円の資金が投下されていた[8]。だが、万博が終われば旅客は減り、当然ながら、累積赤字は増える。そこで、万博が終わっても、何とかして旅客数が減らないようにしたい。そのためのプランを練って欲しいとの注文が電通に入った[8]

この時、藤岡はAE(統括者)となってプロジェクトチームが編成され、セールスプロモーションマーケティングクリエイティブ局など各局から選ばれたスタッフが集まって、万博に匹敵するイベントを、金をかけずにつくりだす難問に取り組むことになった[8]。そんなとき、藤岡が、イベント企画とはかけ離れた、ディスカバーというコンセプトを思いつき、彼はディスカバーを、日本語の旅という文字に重ね[9]、「日本を見つける旅……ディスカバー・ジャパン。」をひねり出し、さらにサブタイトルとして「美しい日本と私」をつけた[10]。「美しい日本と私」は、川端康成ノーベル文学賞を受賞したときの講演の演題「美しい日本の私」からとったものだが[10]、作家の北條誠に「著作権法のうえから問題がある」といわれると、藤岡は、すぐさま、川端宅に出向いて、川端自身に、彼の演題と一字違いの広告用サブタイトルの命名者になってくれと頼み落とした[10][11][12]

ディスカバー・ジャパン・キャンペーンの最初の仕事は、一枚のポスターをつくることで、藤岡は「ふれあいの美しさ、あるいは悲しさ」をポスターのモチーフにあげていた[10]。しかし、できあがった若い女性が熊手木の葉をかき集めているポスターは、風景はどこともわからず、それどころか写真全体がひどくぶれていて、女性の容姿も落葉の一枚一枚もさだかでなかった[10]。ディスカバー・ジャパンのタイトルが入っていなければ、何のポスターかもわからない代物だった[10]。藤岡は首をひねったが、国鉄はOKを出し、結果としては、好評を博した[10]

ディスカバー・ジャパンのポスターは、それから月に一種類、全国のへ約7千枚貼られ、月に二種類、約2万枚の吊り広告が全国の国電の車内に貼られることになった[13]。この効果もあり、万博の翌年、71年の乗客数の落ち込みは全くなく、そのせいか、当初3年間のキャンペーンだったはずが、7年間も続いた[13]
いい日旅立ち

ディスカバー・ジャパンに続く、国鉄のキャンペーン・パート2として企画され、当時最も売れていた歌手、山口百恵に同名の歌をうたわせた[13][11]作詞作曲谷村新司。54万枚売れ、山口の歌の中では横須賀ストーリーに次ぐ売り上げを記録した[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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