藤子不二雄A
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ふじこ ふじお エー
藤子 不二雄?
本名安孫子 素雄(あびこ もとお)
生誕 (1934-03-10) 1934年3月10日
富山県氷見郡氷見町
(現在の氷見市
死没 (2022-04-06) 2022年4月6日(88歳没)
神奈川県川崎市多摩区
国籍 日本
職業漫画家
称号氷見市名誉市民
活動期間1951年- あびこもとお・ふじもとひろし
1952年- 足塚不二雄
1953年- 藤子不二雄
1988年-2022年 藤子不二雄?
代表作『オバケのQ太郎』(共作)
忍者ハットリくん
怪物くん
プロゴルファー猿
魔太郎がくる!!
笑ゥせぇるすまん
まんが道
受賞第11回山路ふみ子文化財団特別賞[注 1]
第10回 藤本賞・特別賞[注 1]
第34回 日本漫画家協会
 文部科学大臣賞(全作品)
第18回手塚治虫文化賞
 特別賞(2作品)
※詳細は#受賞歴を参照。
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藤子 不二雄?(ふじこ ふじお エー[1]1934年昭和9年〉3月10日 - 2022年令和4年〉4月6日[2])は、日本漫画家。1988年に独立するまでは藤本弘(後の藤子・F・不二雄)とともに藤子不二雄として活動した。本名は安孫子 素雄(あびこ もとお)。『オバケのQ太郎』(共作)や『忍者ハットリくん』『怪物くん』『プロゴルファー猿』『笑ゥせぇるすまん』『まんが道』などの作品で知られる。エッセイスト作詞家タレント俳優としても活動した。
来歴
父の死と運命の出会い

富山県氷見郡氷見町(現在の氷見市)にある仏教曹洞宗古刹である光禅寺第49代住職安孫子耕玉の長男として生まれる[3]。1940年に氷見市立今町小学校[注 2]に入学[4]。1944年に父が急逝し、親族を頼って高岡市転居した。転入先の定塚国民学校高岡市立高陵小学校の前身校)で藤本弘と知り合う[5][6]。国民学校初等科時代から漫画を描いて遊んでいたが、中学生のときに手塚治虫の『新宝島』を読んで衝撃を受け、本気で漫画家になりたいと感じる。富山県立高岡中部高等学校(現 富山県立高岡高等学校)在学中、1950年に藤本と合作での漫画投稿作品制作を始め、1951年に『天使の玉ちゃん』でデビュー[7]
新聞社勤務と漫画執筆

高校卒業後の1952年、伯父の鍋島弘蔵が専務を務める富山新聞社(現・北國新聞富山本社)に入り[8][9]、学芸部と社会部で似顔絵インタビュー記事を担当(一方で、藤本は製菓会社を数日で退社した[5][注 3])。

会社勤めをしつつ、夜や休日には藤本と漫画を描く日々を送り、11月に雑誌デビューを果たすと、翌1953年には雑誌連載も開始。かねてからの依頼で2人がかりでようやく描きあげた単行本『UTOPIA 最後の世界大戦』が夏に刊行される。伯父の鍋島弘蔵(元富山新聞社長)

12月、藤本に上京を誘われるが、漫画の仕事一本で後がない藤本と違って、安定したサラリーマン生活を送りつつ漫画を描いていた安孫子は新聞社に未練があった。好意を抱いていた後輩社員がいたという理由もあった。母に反対されたら上京は無理だと思っていたが、母の答えは「好きにしなさい」という予想外のもの。安孫子は人生ではじめて大いに悩んだ挙句に夢の道に進むことを選び、新聞社を退社した[5]。当時社長になっていた伯父には激怒されたという。
トキワ荘で連載10本の人気漫画家に、オバQブームで社会現象に

1954年6月、藤本と共に漫画家となるために上京。連載を含む仕事を月に約10抱える人気作家になるものの、1955年正月に里帰りした際に、11本の仕事のうちの5本[注 4]を落とすという失態をしてしまう。幸いにも干されることはなく、翌年には再び連載を獲得。その4年後には、連載10本の売れっ子漫画家となる。

その後、『オバケのQ太郎』(合作)はアニメ化とともに大ブームを起こし、社会的に名前の知られる漫画家となる。『忍者ハットリくん』『怪物くん』もほぼ同じ時代に発表し何度もアニメ化や映画化が行われる大ヒット作となる。
ダークな大人漫画と少年漫画。多彩な作品を最も生んだ1970年代

1968年からは大人漫画にも進出。『笑ゥせぇるすまん』の前身の『黒ィせぇるすまん』を生み出した。
その他、後にブラックユーモア短編と呼ばれる短編群の他、『毛沢東伝』『愛ぬすびと[注 5]ミス・ドラキュラ』等の作品を多数発表した(安孫子の全時代を通じて最もダークな作品、実験的な作品群が数多く発表されたのはこの1970年代前後)。


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