藤子不二雄の連載一覧
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漫画家藤子不二雄(藤本弘と安孫子素雄)の連載作品のタイトル一覧。各年のそれぞれの仕事量、合作状況などを一望できる。

読切作品の一覧(コマ漫画、イラスト等を含む)は 藤子不二雄の読切一覧 を参照。

連載作品の内容については 藤子不二雄の連載作品 を参照。
掲載作品


連載作品を掲載。

描き下ろし単行本を掲載。

別冊付録に執筆された作品を掲載。連載作並のページ数のものが多いため。

連載作の読切(連載期間の前や後に読切掲載されたもの)を掲載。

エッセイ等の文章のみの作品は一部のみを掲載。

マーク


頭に「※」が付いた作品は未発表作品。

末尾に「【TV】」が付いた作品は、連載の同年にテレビでアニメやドラマが放送された作品(「【翌TV】」は翌年に放送)。

【<TV】は別作者の作品の漫画化(1961年以前)。

【=TV】はアニメとの連携が前提で漫画連載が開始または再開した作品。


末尾に「【映】」が付いた作品は、連載の同年に劇場用映画が公開送された作品(「【翌映】」は翌年に公開)。

掲載年


作品が掲載された雜誌や書籍の発売日を基準とする。

例)1970年1月号から連載が開始された『ドラえもん』は1969年の欄から掲載。


ペンネーム


以下の表の1954年から1987年までの作品は、基本的にすべて共通のペンネーム「藤子不二雄」名義で発表。

仕事場


仕事場の場所と、足掛け年数を記載。「下北中野」は下北沢(小松アパート)と中野(スタジオゼロ)。

その他


週刊ペースで連載された作品に「週刊」と記してあるが、週刊誌と月刊誌で同時連載された場合でも「週刊」としか記していないので注意。


1940年代

1948年に肉筆回覧誌『RING』を創刊する前後に、藤本は手作りの漫画本(わら半紙を折りたたんだ簡単な作りのもの[1])を多数執筆している。


中学・高校時代の作品


妖怪島 (yokait?)(1947年または1948年) - 藤本作品。14歳の頃に描いたといわれている。全116頁の手作り漫画本。遭難した少年ポケットが流れ着いた島は妖怪島だったという物語
[2]



moony city(1949年?) - 藤本の手作り漫画本
[1]

ロック・ダンプリング (THE ROCK DUMPLING) (1949年?) - 「H. Hoshitomo」名義。藤本の手作り漫画本[3]

大氷原 (FROZEN WORLD)(1949年11月3日) - 「星伴蛭二」(ほしともひるじ)名義。「藤本弘」(ふじもとひろし)のもじりだと推測できる。藤本の手作り漫画本。扉に「長篇科学漫画」と記載[3]


1950年代

高校3年時に新聞連載でプロデビュー。1年半後に初の単行本を上梓。1954年に上京し多数の仕事を獲得するが、1955年の正月に大量締切遅延・原稿落とし事件を起こし、その年の10月までに連載をすべて失う。しかし、年末には別冊付録の依頼が多数あり、富山から姉を呼ぶほど多忙になる。1956年には安孫子担当の『ロケットくん』が藤子不二雄初の長期連載となり、人気漫画家として完全復活する。当時の流行により、多数の別冊付録を執筆。
プロデビュー前の未発表作品



赤十字旗の下に(1951/1/26) - 読みは「レッドクロスのもとに」。英題は「HATOL'S ADVENTURE UNDER THE RED CROSS」。高校2年の藤本が執筆を試みた作品。長編か短編かは不明だが、扉は他の長編作と同様のデザイン
[3]



海底連邦(1951/9/30) - 「H. Fujimoto」名義。扉に「新連載冒険漫画」「1951.9.30」と記載。『
UTOPIA』の執筆中断は10月18日と安孫子の日記に記されているが、藤本はその前から単独名義で別の長編漫画を描こうとしていたことが分かる。『海底人間メバル』の原型と思われる[3]

プロデビュー後の未発表作品



ベン・ハー(1951-1952、1953) - 漫画原稿はわずかしか描かれなかったが、
手塚治虫と初対面した際に持参し、「これだけの完成度の漫画が描ける」という見本になったお陰で、手塚が取り次いだ出版社からの単行本執筆依頼を得られ、『UTOPIA 最後の世界大戦』の上梓が実現。その次作として『ベン・ハー』が長編漫画単行本となるはずが頓挫してしまったが、それが上京してプロ漫画家の道を本格的に歩む契機となった。漫画家としてのキャリアを形成する上で重要な役割を担った作品。詳細はベン・ハー#藤子不二雄を参照。



燃える地球(1953または1952) - 足塚不二雄名義。扉に「新連載冒険漫画」と記載
[3]

西暦仕事場藤本弘合作安孫子素雄読切

1951

高岡1

天使の玉ちゃん(プロデビュー)

>

1952

高岡2

天使の玉ちゃん

三人きょうだいとにんげん砲弾(初の別冊)

>

1953

高岡3

燃える地球(未発表)

ベン・ハー(未発表)


四万年漂流(初の雑誌連載)

UTOPIA 最後の世界大戦(初の単行本)

>

1954

高岡4
両国
トキワ荘1

漫画少年テーマ特集(新漫画党競作)[注釈 1]

ゆりかちゃん

海底人間メバル


漫画図鑑(新漫画党合作)

バラとゆびわ(別冊)


マンガ百人五首(イラスト)[注釈 2]

漫画少年テーマ特集(新漫画党競作)[注釈 3]

どんぐりくん

>

1955

トキワ荘2

ゆりかちゃん

海底人間メバル

よるの王子さま

おやゆびひめ(別冊)


漫画図鑑(新漫画党合作)

光にあたれ陽にあたれ[注釈 4][4]


どんぐりくん

漫画少年テーマ特集(新漫画党競作)

世界とたたかう少年

テキサス決死隊(別冊)

>

1956

トキワ荘3

光公子

竹光一刀流(別冊)


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