藤堂高虎
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この記事は大言壮語的な記述になっています。Wikipedia:大言壮語をしないを参考に修正して下さい。(2022年7月)

 凡例藤堂 高虎
個人蔵
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕弘治2年1月6日1556年2月16日[1]
死没寛永7年10月5日1630年11月9日[2]
改名与吉(幼名)、高虎
別名与右衛門(通称
戒名寒松院殿道賢高山権大僧都[2]
墓所

東京都台東区上野恩賜公園内の寒松院[注 1]

三重県津市の寒松院三重県伊賀市の上行寺
官位従四位下左近衛権少将佐渡守和泉守、贈従三位
幕府江戸幕府
主君浅井長政阿閉貞征磯野員昌津田信澄豊臣秀長秀保秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
伊予今治藩主→伊勢津藩
氏族藤堂氏
父母父:藤堂虎高、母:藤堂忠高の娘
兄弟鈴木弥右衛門室、高則、高虎、華徳院(山岡直則室のち渡辺守[3]室)、高清、正高、藤堂高経室
正室:一色義直の娘・久芳院
継室:長連久の娘・松寿院
高次高重蒲生忠郷正室、藤堂忠季室、高吉藤堂高刑室、岡部宣勝正室、前野小助
小堀政一正室、生駒正俊正室
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津城址にある藤堂高虎像

藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。津藩藤堂家(藤堂家宗家)初代。

藤堂高虎は、黒田孝高加藤清正と並び、「築城三名人[4]」の一人と称される。数多くの築城の縄張りを担当し、層塔式天守を考案。高石垣の技術をはじめ、石垣上には多聞櫓を巡らす築城の巧みさは、その第一人者といっても過言ではない[4]。また外様大名でありながら徳川家康の側近として幕閣にも匹敵する実力を持つ、異能の武将であったといえる[5]
系譜

従来、藤堂氏の系譜は村を代表する土豪層とされ、高虎は土豪から大名へとのし上がったとされてきた。しかし、先祖にあたる藤堂景盛が公家の広橋兼宣に仕える侍であったことが明らかになっている[6]。公家侍藤堂氏は、古記録に登場しており、京都にも拠点を持つ有力領主であった[7]
生涯
主家転々の時代

弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる[1][8][7]。母「とら」は多賀良氏の娘であったが、その後、藤堂忠高の養女となっている[1]

幼名を与吉と名乗った。幼少の頃より人並み外れた体格で、壮年の乳母の乳では足らず、数人の女性の乳を貰ったとされる。性格も荒く、3歳の頃には餅を5つ、6つ食べることもざらで、ケガをしても痛いと言ったことがないと伝わる。13歳の時には、兄の高則よりも背が高く、筋骨逞しい身体であった[9]。兄の戦死後、若くして家督を継いだ[9]

はじめ近江国の戦国大名浅井長政に仕え[10]元亀元年(1570年)の姉川の戦いで父・虎高と共に磯野員昌隊に属して初陣を飾り[11]武功を挙げ、その後宇佐山城攻めでも活躍し長政から感状と脇差を受ける[12]。しかし元亀3年(1572年)同僚の山下某を勲功を巡る争論の末切り捨てて逃走。この時高虎は大紋の羽織を裏返して着用し、追手の者が「大紋を着た者を見なかったか」と尋ねても誰もわからなかったという[13]

天正元年(1573年)に小谷城の戦い浅井氏織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった山本山城主阿閉貞征に厚遇されて仕えるが、同僚の阿閉那多助・広部文平が自分の指示に従わなかったため殺害し浪人となる。なお、この時に渡辺了と交流している。

次いで同じく浅井氏旧臣の小川城磯野員昌の家臣として80石で仕えた[14]。やがて信長の甥・織田信澄佐和山城に入るとこれに仕えるが(『諸家深秘録』)、加恩もなかったので長続きしなかった(母衣衆の者と喧嘩をしている)。
恩人・秀長との出会い

天正4年(1576年)に、信長の重臣・羽柴秀吉の弟・羽柴秀長(豊臣秀長)に300石で仕える。この時に冠名を与右衛門に改めている(『公室年譜略』)[10][14][11]


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