藤和不動産サッカー部
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藤和不動産サッカー部
原語表記藤和不動産サッカー部
呼称藤和
クラブカラー.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  臙脂(1968年 - 1975年)
  黄、  緑(1975年 - 1984年)
  白、  青(1985年 - 1993年)
創設年
1968年
解散年1993年
ホームタウン栃木県(1968年 - 1974年)
東京都神奈川県平塚市(1975年 - 1992年)
神奈川県平塚市(1993年)
ホームスタジアム国立霞ヶ丘競技場陸上競技場
国立西が丘サッカー場

ホームカラーアウェイカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

藤和不動産サッカー部(とうわふどうさんサッカーぶ)は、かつて存在した日本サッカークラブ。藤和不動産のサッカー部として1968年に創部した[1]1972年から1993年まで日本サッカーリーグに所属した。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する湘南ベルマーレの前身となったクラブである[1]
歴史

1968年広島出身の藤田一族の経営する藤和不動産が新たに栃木県那須藤和那須リゾート内に創設[1][2][3][4][5][6][7][8]。チーム創設の経緯は「キング・オブ・スポーツ」のサッカーで社名を世界に轟かせるという威勢にいいもので[9]藤田正明の持論は「野球はアメリカと日本だけ。将来、必ずサッカーの時代が来る」「強くなるためにはプロを作らないとダメだ」で、将来のプロ化を見据えて藤田はサッカー部を作った[3]。当時、日本サッカーリーグ(以下、JSL)のチームでさえ練習場所を転々としていたが、那須ハイランドに芝生3面の専用練習グラウンドを整備し、全24室すべて個室の合宿所コテージ風)を建設。これら全てを1カ所に集中させた[3][4][7]。また専門の栄養士が就いて選手の食事を用意し、夜はビデオテープを使ってミーティングまで行なったという他チームにとっては垂涎の環境であった[3][4]三菱重工(現「浦和レッズ)が合宿を行なった際、同行していたドイツの名将・ヘネス・バイスバイラーが絶賛したという逸話も残る[3]。雪で練習場が使えない時は、藤和の選手たちは矢板東高校のグラウンドを借りた[10]。同校の選手・指導者に最先端の戦術・技術を伝え、同校は全国的な強豪になった[10]

「3年で日本サッカーリーグ(JSL)入り」という高い目標を掲げて[4]東洋工業サッカー部の黄金期を創った石井義信を迎え強化を図り[1][3][11]栃木県社会人リーグ4部に参加[3]、1試合平均15得点とあまりの強さに、1部リーグとの入れ替え戦を許され、翌1969年栃木県リーグで優勝[1][7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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