凡例藤原顕綱
時代平安時代中期 - 後期
生誕長元2年(1029年)
死没康和5年6月27日(1103年8月1日)
別名讃岐入道
官位正四位下、讃岐守
主君後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇
氏族藤原北家道綱流
父母父:藤原兼経、母:明子(藤原順時
藤原 顕綱(ふじわら の あきつな)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。藤原北家道綱流、参議・藤原兼経の三男。官位は正四位下・讃岐守。 治暦年間(1065年-1069年)に和泉守を務めると、丹波守・但馬守・讃岐守と後三条朝から白河朝にかけて地方官を歴任する。その後、出家して讃岐入道と号した。康和5年(1103年)6月27日卒去。享年75。最終官位は前讃岐守正四位下。ただし、翌長治元年(1104年)の藤原俊忠の歌合にその名が見えることから、この没年については疑問もあり、嘉承2年(1107年)頃没という説もある。 歌人として知られ、承暦2年(1078年)の内裏歌合などに出詠。家集として『讃岐入道集』(『顕綱朝臣集』)があり、『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に25首が入選している。また古典にも造詣が深く、『万葉集』の書写などを通じてその伝承に貢献した。 母が禎子内親王の乳母であった関係から後三条天皇に近く、次男・有佐は実は後三条天皇の落胤であったと伝えられている。
経歴
官歴
治暦年間:和泉守[1]
延久4年(1072年)日付不詳:丹波守[2]
承暦2年(1078年)4月28日:見丹波守[3]
承暦3年(1079年)4月11日:讃岐守[4]
康和5年(1103年) 6月27日:卒去(前讃岐守正四位下)[5]
系譜
父:藤原兼経
母:藤原明子(弁乳母) - 藤原順時
妻:藤原隆経の娘
男子:藤原家通(1056-1116)
男子:藤原道経
女子:藤原兼子(伊予三位、1050-1133) - 藤原敦家室、堀河天皇乳母
妻:平親子(侍従内侍) - 平経国の娘
男子:藤原有佐(?-1131) - 後三条天皇の落胤[6]
生母不詳の子女
女子:藤原長子(1079-?) - 讃岐典侍
脚注^ 『平安遺文』1083
^ 『魚魯愚鈔』
^ 『内裏歌合』
^ 『大記』
^ 『尊卑分脈』
^ 『今鏡』137段による。
参考文献
『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年
宮崎康充編『国司補任 第四』続群書類従完成会、1990年