藤原顕季
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 凡例藤原 顕季
時代平安時代後期
生誕天喜3年(1055年)
死没保安4年9月6日1123年9月27日
別名六条修理大夫
官位正三位修理大夫
主君後三条天皇白河天皇堀河天皇鳥羽天皇
氏族藤原北家魚名流
父母父:藤原隆経、母:藤原親子
養父:藤原実季
兄弟師隆、顕季、静命、藤原顕綱
藤原経平の娘
長実家保顕輔藤原宗通室、
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藤原 顕季(ふじわら の あきすえ) は、平安時代後期の貴族歌人藤原北家魚名流正四位下美濃守藤原隆経の次男。官位正三位修理大夫。六条修理大夫と号した。歌道家の流派の一つ六条藤家の祖。善勝寺流初代。
経歴

藤原北家魚名流の後裔である美濃守・藤原隆経[1]の子として誕生。末茂の子孫では光孝天皇の母・藤原沢子の甥として中納言に昇った有穂が唯一の公卿であり、顕季の家は代々受領を務める中級貴族に属する家であった。

母が白河天皇の乳母であったため、乳兄弟として白河天皇の信任が厚く、若い頃より讃岐国丹波国尾張国上国国司を歴任。永保3年(1083年)には29歳にして早くも正四位下に昇進する。その後も大国である播磨守大宰大弐を務めながら財力を蓄え、その邸宅六条殿は白河院の院庁となるほど豪勢なものであった。また、家格を上げるために、白河上皇の生母藤原茂子の兄である藤原実季の養子にもなった。

院の近臣として権勢を誇り、長治元年(1104年)には従三位に昇進、末茂の子孫としては前述の有穂以来約200年ぶりの公卿となった。しかしながら、議政官への昇進は叶わず、極官は正三位・修理大夫であった。なお、顕季が白河法皇に対して参議への任官希望を伝えたものの、漢詩を作れない事を理由に沙汰止みになったとされる[2]

顕季の三人の子(長実家保顕輔)及びその子孫も院の近臣として活躍。顕季から始まる家系は善勝寺流と呼ばれ、四条家を始めとして、7家の堂上家羽林家)を輩出した。
官歴

公卿補任』による。

延久元年(1069年) 12月17日:左兵衛尉

延久4年(1072年) 12月8日:六位蔵人

延久5年(1073年) 正月30日:左近衛将監。8月29日:従五位下(蔵人、臨時)、左近衛将監如元

延久6年(1074年) 正月28日:左兵衛権佐

承保2年(1075年) 正月28日:兼讃岐守(甥播磨守経平以坊官賞譲)

承保3年(1076年) 正月5日:従五位上(労)。11月29日:正五位下(造六条廊殿功)

承暦2年(1078年) 正月6日:従四位下陽明門院御給)。6月19日:丹波守(元讃岐守)

承暦5年(1081年) 正月26日:従四位上(讃岐治国賞)

永保3年(1083年) 正月6日:正四位下(陽明門院御給)

応徳元年(1084年) 12月26日:尾張守(元丹波守)

寛治4年(1090年) 8月10日:伊予守(敦家卒去替、元尾張守)

寛治8年(1094年) 2月22日:播磨守(元伊予守)。7月13日:修理大夫、守如元

康和3年(1101年) 7月7日:美作守、大夫如元(元尾張守)

康和4年(1102年) 3月20日:正四位上(院司)

康和5年(1103年) 8月17日:春宮亮、大夫守如元、院別当

康和6年(1104年) 正月28日:従三位、大夫如元、去亮守

天仁元年(1108年) 11月20日:正三位(造宮賞)

天永2年(1111年) 正月23日:太宰大弐、大夫如元

保安3年(1122年) 12月21日:辞修理大夫

保安4年(1123年) 8月24日:出家


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