凡例藤原顕信
時代平安時代中期
生誕正暦5年(994年)
死没万寿4年5月14日(1027年6月20日)
改名顕信→長禅(法名)
官位従四位下、右馬頭
主君三条天皇
氏族藤原北家御堂流
父母父:藤原道長、母:高松殿
兄弟彰子、頼通、頼宗、妍子、顕信、能信、教通、寛子、威子、尊子、長家、嬉子、長信
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藤原 顕信(ふじわらの あきのぶ)は、平安時代中期の貴族・僧。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の三男。官位は従四位下・右馬頭。 寛弘8年(1011年)10月に右馬頭に任官[1]。翌寛弘9年正月19日(1012年2月19日)、世を儚み行願寺(革堂)の行円の許を訪ねる。その教えに感銘を受けてそのまま剃髪し、比叡山無動寺に出家した。その将来に期待していた両親は、大いに嘆き悲しんだと言われる[2]。 その後、無動寺から大原に移って仏道修行に励んでいた[3]が、余命短い事を悟って延暦寺の根本本堂に2週間籠った後に無動寺にて病死したという[4]。 顕信の出家の2ヶ月前にあった事件がその一因であったとの説がある。寛弘8年12月15日、藤原伊周の子道雅と道長の次男頼宗(高松三位中将)及びその舎弟が、派遣先の北野の斎場にて他人の悪口を言い合っていたことが発覚している(『小右記』)。『小右記』では頼宗の弟が誰であるかは明らかにはされていないものの、状況的に道雅・頼宗と居合わせられる弟は顕信以外にはいなかったと考えられる[5]。その4日後の19日、三条天皇から道長に対して藤原通任の参議昇進で空席となった蔵人頭に顕信を就ける意志を告げたところ、道長が顕信は「不足職之者」で「衆人之謗」を招くとして辞退を申し出ている[6]。道長の辞退の理由は15日の一件と考えられているが、同時に天皇の前で父親から「不足職之者」と評された顕信は、自己の将来に対する不安を抱えていたことが突然の出家に繋がったというものである[7]。
経歴
出家の理由について
顕信が登場する作品
永井路子『望みしは何ぞ - 王朝・優雅なる野望』中央公論新社
瀧波ユカリ『あさはかな夢みし』講談社
脚注^ 『権記』寛弘8年10月条
^ 『大鏡』第五巻,太政大臣道長、『栄花物語』巻第十,ひかげのかづら
^ 『御堂関白記』長和3年8月9日条
^ 『栄花物語』巻第二十九,たまのかざり
^ 頼宗の舎弟(同母弟)のうち、能信は蔵人として宮中に詰めており、長家は元服前であった。
^ 『権記』
^ 関口力