藤原隆長
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例藤原隆長
時代平安時代末期
生誕永治元年(1141年
死没不明
改名今麿(幼名)→隆長
官位正四位下左近衛権中将
主君近衛天皇後白河天皇
氏族藤原北家御堂流
父母父:藤原頼長、母:源師俊
兄弟師長兼長、隆長、範長
養兄弟:多子
テンプレートを表示

藤原 隆長(ふじわら の たかなが)は、平安時代末期の貴族藤原北家御堂流左大臣藤原頼長の三男。官位は正四位下左近衛権中将
経歴

仁平元年(1151年)2月21日に侍従に任じられ[1]、同年5月26日に右少将[2]、7月24日に左少将に転任[3]、仁平2年(1152年)正月28日に従四位下に叙され[4]、同年9月9日に左近衛権中将に転任[5]、仁平ら3年(1153年)正月5日に正四位下に叙され(高陽院御給、二階、元従四位下)[6]、同月21日に紀伊権守を兼任した[7]。仁平2年、鳥羽法皇の五十歳の御賀に当たり、藤原実定と共に青海波を舞ったが、その様子を見物した祖父・忠実から舞の未熟さを見咎められ、師匠である狛光行と交替させられた逸話が『古事談』に見える(隆長に代わった光行の舞も隆長のそれと大差なく、舞の正しい伝承が行われていないことを知った忠実が、自ら光行に指導したとある)。

保元元年(1156年)の保元の乱において父・頼長が敗死すると、兄弟達と共に一旦宇治の忠実の許に身を寄せるが、7月27日に左権中将を解官され、朝命によって8月3日に伊豆国へ配流された。詳細な年代は不明ながら、その後は都に帰還することなく配所で没した。
脚注^ 『台記』
^ 『近衛府補任』(続群書類従完成会)
^ 『近衛府補任』(続群書類従完成会)
^ 『近衛府補任』(続群書類従完成会)
^ 『兵範記』
^ 『兵範記』
^ 『山槐記』

出典

新日本古典文学大系 41『 古事談 続古事談 』 2005年11月発行 ISBN 4-00-240041-7 川端善明、荒木浩

新日本古典文学大系 43 『保元物語 平治物語 承久記』 1992年7月発行 ISBN 4-00-240043-3 栃木孝惟、日下力、益田宗、久保田淳


更新日時:2018年7月7日(土)11:20
取得日時:2021/06/21 16:15


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:6526 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef