凡例藤原 隆方
時代平安時代中期?後期
生誕長和3年(1014年)
死没承暦2年12月(1079年)
官位正四位上、但馬守
主君後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇
氏族藤原北家勧修寺流
父母父:藤原隆光、母:源国挙
藤原 隆方(ふじわら の たかかた)は、平安時代中期から後期にかけての貴族。藤原北家勧修寺流、備中守・藤原隆光の次男。官位は正四位上・但馬守。目次 春宮・親仁親王の春宮蔵人や右衛門少尉を経て、寛徳2年(1045年)親仁親王の即位(後冷泉天皇)に伴って六位蔵人に任ぜられる。翌寛徳3年(1046年)2月に従五位下・周防守に叙任されるが、7月には中宮権大進を兼ねており、周防守は遙任で務めたか。 その後、中宮権大進として後冷泉天皇の中宮・章子内親王に仕えたほか、右衛門権佐や五位蔵人を務める一方、永承6年(1051年)従五位上、永承7年(1052年)正五位下、康平2年(1059年)正五位上と昇進する。康平6年(1063年)従四位下・備後守に叙任されて地方官に転じるが、治暦元年(1065年)には右中弁として京官に復し、治暦3年(1067年)興福寺供養日行事賞により従四位上に叙せられた。 後三条朝に入っても、延久元年(1069年)正四位下・権左中弁と要職の弁官を務めながら順調に昇進を続けた。しかし、延久4年12月(1073年)に正左中弁の座が空くと、本来であれば権左中弁の隆方が順送り人事で昇進すべき所、同じ正四位下の位階にあったが弁官の経験がない東宮学士・藤原実政が抜擢される。これは、後三条天皇が春宮であったころ、木津の渡し
1 経歴
2 官歴
3 系譜
4 脚注
5 参考文献
経歴
白河朝に入り、承保2年(1075年)実政が右大弁に昇ると、ようやく隆方も後任の左中弁に昇格する。承保4年(1077年)正月に正四位上に昇叙されるが、10月には但馬守として地方官に転じ、翌承暦2年12月(1079年)に卒去。享年65。 『弁官補任
官歴
時期不詳:春宮蔵人(春宮・親仁親王)
長久5年(1044年) 正月30日:右衛門少尉
寛徳2年(1045年) 正月16日:六位蔵人。2月26日:左衛門少尉。4月11日:使宣
寛徳3年(1046年) 2月7日:従五位下。2月11日:周防守。7月10日:兼中宮権大進(中宮・章子内親王)
永承6年(1051年) 11月5日:従五位上
永承7年(1052年) 正月5日:正五位下
天喜2年(1054年) 2月22日:右衛門権佐、中宮権大進如元
天喜5年(1057年) 10月29日:五位蔵人
康平2年(1059年) 2月5日:正五位上(府労)
康平3年(1060年) 2月21日:兼周防介
康平6年(1063年) 2月26日:従四位下、備後守、去権佐権大進
治暦元年(1065年) 12月8日:右中弁、元備後守
治暦3年(1067年) 2月25日:従四位上(興福寺供養日行事賞)
延久元年(1069年) 8月9日:正四位下(石清水賀茂行幸行事賞)。12月17日:権左中弁
延久2年(1070年) 正月25日:兼備中介
延久3年(1071年) 3月27日:修理右宮城使
延久5年(1073年) 正月30日:兼太皇太后宮亮(太皇太后・章子内親王)
延久6年(1074年) 6月16日:止亮(院号)。